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 今年を象徴する漢字は「偽」でした。
 おおかたの予想通りといったところでしょう。
 確かに,今年は「偽装づくし」の一年だったと思います。

yukiyama.jpg 今日は,その「偽」を追及するのではありません。
 この「偽」を問題視する「我々の側の姿勢」について考えてみたいと思います。

 「偽」に対する私たちが見せた反応は,示唆に富むと思います。
 なぜなら,社会が注目した一連の「偽装」は,決して「今年」に始まったことではないからです。
 そのほとんどが,古い過去から連綿と続いてきた因習に過ぎません。
 何が変わったかというと,今年に入ってから,にわかに「許されないことだ」というジャッジが下されるようになったということでしょう。
 マスコミは「偽装が発覚」という報じ方をしてきました。
 しかし,そういうスクープ的な表現に本質があるのではなく,「これまでのゴマカシが許されなくなった」に過ぎないというのが実態に即しているのではないでしょうか。

 私は,この「許さない」という空気の蔓延が,今年の日本の象徴ではないかと思います。

 「不正を許さない」という姿勢は当然であるとしても,「何が不正か」という評価については,時代と共に変わっていきます。
 私は,この社会が,どんな小さな事でも,どんな些細な事でも,どんな事情があっても,「悪いこと」(=つまり,ルール違反)ならば,決して許さないという雰囲気に傾倒しつつあるのを感じます。
 それも,急激なスピードで…。


 私は,そもそも法律だとか規制が嫌いです。
 人が生きていくのに,いちいち細かいところまでルールで縛られたら窮屈でたまりません。
 法律やルールは人が作るものです。
 人間の作出物に人間がコントロールされるというのは,比喩的な構図としては,人間がロボットの奴隷になるのに似ていませんか。

 「法の支配」でいう「法」というのは,人間の崇高な「理念」を意味します。
 「理念」と,「(形式的)法治国家」における「法律」とは全く意味が違います。
 「法」は,決して,「人を許さない」というものではありません。
 …ちょっと抽象的で分かりにくいかも知れませんね。
 とにかく,「法律」などというものに振り回されて,「人間の本質」を損なうような社会であってはならないという事を言いたいわけです。

 「人が他を許す」という寛容さは,文化度としては高いところにあると思います。
 これと反対に,「何事も許さない」という狭小な精神は,行き過ぎれば病的でさえあります。
 数年前から忍び寄ってきている「監視社会」の温床は,この「許さない」社会傾向にあるのではないかと感じています。
 「人の存在」や「人の行い」「人の営み」を,お互いに「許す」ことができる寛容な社会に戻って欲しいと思います。

 (「ALWAYS三丁目の夕日」に見る日本の美しさは,そんなところにあるのではないでしょうか。)

 私は,今年の「偽」という字が,「人」が「為す」という漢字であるというところにもヒントがあると思います。
 たとえ,それが過ちであっても「人の為すこと」として許し合える度量の大きい社会であって欲しいと思います。
 (なお,誤解があってはいけないので蛇足で一言付け加えます。この「許す」ことと「責任を果たさせる」ことは別です。過ちがあったら,「人」は許すが,「行い」についてはきちんと責任を全うすべきです。これまた「人の道」であり,「罪を憎んで人を憎まず」という理念の実践でもあります。)

 これをもって本年のブログの締め括りとさせていただきます。
 ご来訪いただいたみなさん,ありがとうございました。良いお年をお迎え下さい。
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 韓国が「事実上の死刑廃止国」になったとのことである。
(→こちらのニュースより

 韓国における法的な諸制度は,日本の法システムとよく似ている。
 だから,制度としては,死刑も容認している。

 ただ,人権に関する制度については,やはり日本の方が一歩先に進んでいると思う。
 言うまでもなく,それは「日本国憲法」が優れているからだ。

 たとえば,死刑廃止に関して,日本の場合は,その根拠を憲法に求めようとすれば,
     「残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる」
という憲法36条の規定がある。
 しかし,大韓民国憲法には,そのような規定がない。

 もっとも,いくら制度が優れていても,制度の使い方の善し悪しは,別問題だ。

 理由や経過は全く違うけれども,日本では,近時,死刑執行をどんどん進めているような傾向がある。
 他方,韓国は,10年間にわたり死刑執行を行わず,アムネスティ・インターナショナルから「事実上の死刑廃止国」の認定を受けた。

 もちろん,韓国でも死刑制度自体の存否については議論があるようだが,少なくとも人権先進性については,国際社会において,日本より一歩先に進んだ国となった。

 アムネスティが公表している今年9月19日現在の死刑の存廃国一覧は,以下のとおりである。
 こうして列挙してみると,死刑制度に限らず,
いろんな場面において(たとえば,平和・教育・ジェンダーなど),人権全般における先進性,後進性をあらわしている色分図のようにも見える。
 (太字は津久井による)
(1) 全面的に廃止した国
(法律上、いかなる犯罪に対しても死刑を規定していない国)

 アルバニア、アンドラ、アンゴラ、アルメニア、オーストラリアオーストリア、アゼルバイジャン、ベルギーブータンボスニア・ヘルツェゴビナブルガリア、カンボジア、カナダ、カボベルデ、コロンビア、コスタリカ、コートジボアール、クロアチア、キプロス、チェコ共和国、デンマーク、ジブチ、ドミニカ共和国、エクアドル、エストニア、フィンランド、フランス、グルジア、ドイツ、ギリシャ、ギニアビサウ、ハイチ、ホンジュラス、ハンガリー、アイスランド、アイルランド、イタリア、キリバス、リベリア、リヒテンシュタイン、リトアニア、ルクセンブルク、マケドニア(旧ユーゴスラビア)、マルタ、マーシャル諸島、モーリシャス、メキシコ、ミクロネシア(連邦)、モルドバ、モナコ、モンテネグロ、モザンビーク、ナミビア、ネパールオランダ、ニュージーランド、ニカラグア、ニウエ、ノルウェー、パラウ、パナマ、パラグアイフィリピン、ポーランド、ポルトガル、ルーマニア、ルワンダ、サモア、サンマリノ、サントメプリンシペ、セネガル、セルビア、セーシェル、スロバキア共和国、スロベニア、ソロモン諸島、南アフリカ、スペイン、スウェーデン、スイス、東チモール、トルコ、トルクメニスタン、ツバル、ウクライナ、英国、ウルグアイ、バヌアツ、バチカン市国、ベネズエラ


(2) 通常犯罪のみ廃止した国
(軍法下の犯罪や特異な状況における犯罪のような例外的な犯罪にのみ、法律で死刑を規定している国)

 アルゼンチン、ボリビア、ブラジル、チリ、クック諸島、エルサルバドル、フィジー、イスラエル、キルギスタン、ラトビア、ペルー


(3)  事実上の廃止国
(殺人のような通常の犯罪に対して死刑制度を存置しているが、過去10年間に執行がなされておらず、死刑執行をしない政策または確立した慣例を持っていると思われる国。死刑を適用しないという国際的な公約をしている国も含まれる。)

 アルジェリア、ベニン、ブルネイ・ダルサラーム、ブルキナファソ、中央アフリカ共和国、コンゴ共和国、エリトリア、ガボン、ガンビア、ガーナ、グレナダ、ケニア、ラオス、マダガスカル、マラウィ、モルディブ、マリ、モーリタニア、モロッコ、ビルマ(ミャンマー)、ナウル、ニジェール、パプアニューギニア、ロシア、スリランカ、スリナム、スワジランド、タンザニア、トーゴ、トンガ、チュニジア、ザンビア


(4) 存置国
(通常の犯罪に対して死刑を存置している国)

 アフガニスタン、アンティグアバーブーダ、バハマ、バーレーン、バングラデシュ、バルバドス、ベラルーシ、ベリーズ、ボツワナ、ブルンジ、カメルーン、チャド、中国、コモロ、コンゴ民主共和国、キューバドミニカエジプト、赤道ギニア、エチオピア、グアテマラ、ギニア、ガイアナ、インド、インドネシア、イラン、イラク、ジャマイカ、日本、ヨルダンカザフスタン、朝鮮民主主義人民共和国大韓民国クウェート、レバノン、レソト、リビア、マレーシア、モンゴル、ナイジェリア、オマーン、パキスタン、パレスチナ自治政府、カタール、セントクリストファーネビス、セントルシア、セントビンセント・グレナディーン、サウジアラビア、シエラレオネ、シンガポール、ソマリア、スーダン、シリア、台湾、タジキスタン、タイ、トリニダード・トバゴ、ウガンダ、アラブ首長国連邦、米国、ウズベキスタン、ベトナム、イエメン、ジンバブエ



 こうして並べてみると,治安の悪い国には死刑が存置されているような印象も受ける。
 治安が悪いから死刑が必要なのか,死刑を容認するような文化が治安を悪くしているのか,その因果関係の有無はよく分からないが,その国の「文化としての人権」の感覚と全く無関係というわけではないだろう。

 我が国は,憲法前文で次のように宣言している
「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」

 私たちは,この誓いに近づく努力をしているのかどうか,と考え込んでしまう。
 制度や法システムが悪いのではなく,その使い方に問題があるのではないかと。
 有馬学氏の「帝国の昭和」をざっと読んでみたので,感想を書いておきたいと思います。
※有馬学氏は,先日,沖縄自決軍強制問題で物議を醸した「教科用図書検定調査審議会・日本史小委員会」の委員です。
 「新しい歴史教科書をつくる会」の重鎮・監修者である伊藤隆東大教授の門下生で,日本近代史の専門家です。
 詳しくは,先日書いた記事「「集団自決」教科書問題~“専門家”にダマされるな!」をどうぞ。
 teikokusyouwa.jpg この本は講談社の「日本の歴史」というシリーズの第23巻にあたります。
 つまり,講談社の正式な「歴史全集」の一部分ということです。
 日本の戦前の「昭和戦前期」から終戦までの歴史を取り上げたものです。

 有馬氏は,多くの史料をたいへん丁寧に取り上げています。
 政局の流れなどは当時の新聞解説さながらの詳しさです
 当時の市民の文化の描写も,リアルで詳細です。
 なので,歴史通にとっては,とても興味深い内容なのだろうと思いました。
 歴史の素人である私からしても,一見すると,とても新鮮な視点を提供してくれているようにも感じられます。

 しかし…,
普通の教科書(私の場合は「山川出版社」だった)で学んだ,フツーの知識しか持ち合わせない一般市民である私にとっては,次の点が気になってしかたありませんでした。

 原爆の影響の記述がほとんどない。
 フツーの歴史観しか持ち合わせない私にとって,戦争に終止符を打った広島・長崎への原爆の影響というのは,極めて大きなものがあったと理解しています。
 また,そこでの目を覆うような悲惨な被害状況が,今日の平和の礎になっていると思います。
 山川出版社の日本史の教科書にも数行にわたるコメントがあります。
 しかし,「帝国の昭和」には次の一文と1枚の写真しかありませんでした。
八月六日,広島に原子爆弾が投下され,九日には長崎にも投下された。
 戦局や政局の描写がリアルで詳細なだけに,違和感を拭えませんでした。
 誰もが知っていることなので,あえて取り上げる必要がなかったのかも知れませんが。

 沖縄戦の自決状況について全く記述がない。
 今回,私がこの本を手に取ったのは,言うまでもなく,有馬氏が沖縄本土戦の自決についてどのような見解を示しているかを知りたかったからです。
 しかし,このあたりについての記述は,次の一文だけでした。
四月一日,米軍は沖縄に上陸を開始し,六月下旬に至るまで本島南部を中心に悲惨な戦闘が展開された。
 ここにある「悲惨な戦闘」の内容が問題なのですが,何も書かれていないというところに,同氏の主張があるのでしょうか?
 あくまで「戦闘」と書いてあるので,沖縄住民の「死」も,国民による「戦闘」の結果というように解釈するべきなのでしょうか。
 他の戦局描写のように詳細な記述がないので,読者としては想像するほかありません。

 治安維持法の影響について全く触れられていない。
 私が「治安維持法」という法律を知ったのは,法律の勉強をしたからではなく,教科書に詳しく書いてあったからです。
 (山川出版社の教科書には,治安維持法について,本文の記述のほか,コラム,史料も掲載されています。)
 戦前の市民生活に,この「治安維持法」が大きく影を落としたことは事実だろうと思います。
 また,法社会学的に見れば,日本が戦争という愚挙に及んだ背景に,この悪法の存在は欠かせないと見て間違いないと思います。
 ところが,「帝国の昭和」の本の中には,
 治安維持法 
という言葉そのものが見当たらないのです。
 (少なくとも索引に「治安維持法」という言葉はありません。普通選挙法実施,共産主義弾圧,国民の意識など,関連しそうな記述部分にも見当たりませんでしたが。どこかに埋もれて,見落としていたならごめんなさい。)
 治安維持法の影響の歴史的検証がないまま,今日,次々に導入されようとしている悪法の数々の是非を論じることができるのでしょうか。
 私は,そのことも心配になりました。


 もう一つ「南京事件」の捉え方についても驚きを感じましたが,これはまた別記事とします。

 いずれにしても,私は,歴史論争のひとつの側面を垣間見ることができたのが,何よりの収穫でした。
 ひとつの側面というのは,

   歴史観の違いは,

   イデオロギーの対立という形であらわれるのではなく,

   ある事実に対し,目を凝らすか,それとも,目を逸らすか,

   の違いという形であらわれる


ということでした。
 ダイエットに成功しました。

 今年の9月頃に人生史上最大の79キロ台(平均77キロ)に達してしまいましたが,本日までに,最小値66キロ台(平均67キロ)まで下がり,トータルで約10kg(/約2.5か月)の減量を達成しました。

 特に医者に忠告を受けたわけでもなく,きっかけはほんのちょっとしたことです。

 ひとつは9月中旬に行われた高校の同窓会です。
 出席者のほとんどは20年前の体型をそのまま維持しており,異常なまでに体型を変容させていたのは私ぐらいでした。

 弁護士の同世代の仲間たちは,年を追って太っていく人が多いのです。
 なので,こんなもんだろう,と思っていましたが・・・
 やはり弁護士業界は飽食なのかも知れません(弁護士の食事がやたら早いのは公知の事実です。)。

 同窓会のあいさつでは,自分の太った姿をネタにして
   「職は人を創るというが,私は食でこんなふうになった」
などと自虐ギャク(~というかオヤジギャグで,このセンスの方が問題かも知れない…。)を展開する有様で,「こりゃいかん」とつくづく感じた次第です。

 ちょうど,わが家でもダイエットモードの雰囲気が高まっており,その波にうまく乗れたのも大きなきっかけでした。

 ダイエットの手法については,長くなるので今日は割愛します。

 どうせ,この年末年始の機会に反動化して逆戻りするでしょうから,最小値レコードを記念に残しておこうと思って書いておきます。
 仕事納めの日に,極めて私的な記事ですみません。
 東京の「丸の内総合法律事務所」は,誰もがよく知っている上場会社約50社を含め約100社の顧問先を持つ,立派な法律事務所です。
 私たちのようなマチ弁の事務所とは,全く仕事ぶりも(事務所のゴージャスさも)違います。

 しかし,その事務所の中堅パートナーの中野明安先生は,一緒に被災地に出向いたり,支援法改正の陳情回りをしたりしたお仲間です。
 私たちの「阪神・淡路まちづくり支援機構」の兄弟分である,東京の「災害復興まちづくり支援機構」の立ち上げの中心を担い,今も事務局長を務めておられます。
 数少ない,「災害復興弁護士」(?)のお一人なのです。

 その中野先生が,本を出されました。
bousaitofukkyuu.jpg
 その名も
「いますぐできるBCP
  企業のための防災と復旧のはなし」

という本です。

 中野さんのように,企業弁護士と,災害復興弁護士の両方の顔を併せ持つ弁護士だからこそ出版できた本です。

 ちなみに題目にある「BCP」というのは,「Business Continuity Plan」(事業継続計画)という意味なのだそうです。
 中野さんによると,「予防接種か何かですか?」とボケをかましたのは,私だけではないそうです。


 目次は以下のとおり,
 災害,防災,復旧,復興に関する情報満載です。
 お薦めの一冊です。
第1章 なぜいま、防災なのか、なぜいま、事業継続なのか
第2章 なぜ、なかなか対策が進まないのか
第3章 震災が起こると、人はどう行動するのだろうか
第4章 仕事中に震災が起こると、どうなるのだろうか―「ありうる話1」
第5章 仕事中の震災に備えて、どうすればよいのだろうか―「ありうる話1」の反省から
第6章 はたして仕事は復旧できるだろうか―「ありうる話2」
第7章 BCPをつくろう―「ありうる話2」の反省から
第8章 経営トップを動かすには、どうすればよいか

 カバーもいろいろ考えたそうです。
 表の表紙は明るい感じにしておきながら,本の裏側は災害モードという,面白いアイディアもこの本の「らしさ」を示しています。
bousaifukkkyuu2.jpg

 どさくさまぎれに,ついでですけれども,
 私と片山善博さんの共著の本,
    「災害復興とそのミッション」
もどうぞよろしく(左上のバナーをご覧下さい。)
 薬害肝炎被害者のみなさんが,真に救済されることが何よりも第一である。
 今は良い方向へ向かっている。その流れに水を差すつもりは毛頭ない。
 ただ,この流れが終盤でヘンな方向に流れないでもらいたい。
 そこで,ちょっと釘を刺しておくつもりでコメントしておきたい。

 昨日の福田首相と原告団の方々の面談で,福田首相の誠意は通じたようだ。
  ただし,
    「心からお詫びする」と明言した「謝罪」という行動
         と
    「被害を発生させた責任は明言できない」とした「責任回避」の姿勢
ねじれ現象に,疑問を感じた人は多いと思う。

 私も,こういう姿勢には,常々,疑問に感じているところである。

 普通は,「責任」があるから「謝罪」するわけで,
 今回が典型例だが,
 「謝罪」はするけれども,「責任」は認めない
 というのは,論理としてねじれている。

 しかし,それが最近の日本のトレンドである。

 国の戦争責任にせよ,企業の責任にせよ,
「謝罪」はするけれども「責任」は曖昧にするという歴史的事実の積み重ねが,
この「ねじれ文化」を,日本に産み育ててきたのではなかろうか。

 国が,国民に対して,金銭を支払う方法は,基本的には3つしかないとされている。

 1つは,国の違法行為によって損害が生じた場合の損害賠償である。
 この場合は,言うまでもなく,国に「責任」があることが前提となる。

 2つ目は損失補填である。
 たとえば土地収用など,国の適法行為により一部の人に損失が生じた場合に行う「補填」である。これを一般に「補償」というが,支払う金銭には対価性が要求される。

 3つ目は社会保障である。
 社会保障という看板が掛かると,我が国の福祉行政の悪弊で,窮屈な枠がはめられ「必要最小限」という歯止めが掛かってしまうという問題がある。

 立法を行うとしても,基本的には,上記の内のどれかに当てはめないといけない。

 今回の薬害肝炎問題は,明らかに「損害賠償」である。
 そうすると,「責任」を果たすという理念をベースに「救済」を考えるのが自然であるし,そうすればヘンテコな限定を考える必要もない。
 だから,当然の前提として「責任」を明確にした方が,スムーズだと思う。

 ところが,今回は薬害発生の「責任」の明記を回避するのだという。

 そうなると,流れとしては損失補填か社会保障ということになる。
 しかし,それだと補償の内容にヘンテコな限定が設けられるのではないか,という懸念も生まれる。

 模範解答としては,「損害賠償」を基軸にしつつ,不足する部分を「社会保障」で補うというミックス型ということになるのだろう。

 閣僚が,そこらあたりまで考えているのかどうかよく分からないが,「責任」という基本的な立脚点をモヤモヤした形にして,基本を忘れた救済策をひねり出したりしないよう,注意の目を向けておきたい。

 「謝罪」と「責任」のねじれは曖昧日本の特有の文化なのかもしれないが(?),
救済策の内容にねじれやひねりは不要だ!

 コンプライアンスという考え方が,定着しつつある。
 「法令遵守」という形で翻訳されることが多いが,それは狭小で誤解を生む表現である。

 この分野の第一人者の郷原信郎さんの提唱するフルセット・コンプライアンスというのは,単なる形式的な法令遵守で終わることなく,「社会的な要請に応えるために必要な条件を備えること」とされる。

 今回の薬害肝炎問題でも,国のコンプライアンスが問われていると思う。

 ◇「責任」を明確化し(←今回はここがあいまい)
 ◇これに対応する「救済」を行うとともに(←現時点ではここまで実現しそう)
 ◇「原因」を探求して(←ここには,いつも目を背けている)
 ◇十分な「再発予防」と「環境整備」を行う(←いつも,これが不十分で終わっている)


 国という組織が,真の一流企業なみのレベルに達しているのか,旧態依然とした凡庸企業の程度なのかが,問われている。

 きちんと対応すれば,「謝罪」と「責任」が,ねじれたり,分離したりする,曖昧模糊としたビミョーな文化観の増殖を抑えることができる。

 親方日の丸が悪い見本となったらいけない。
 子どもたちに「自分が悪くなくっても,口だけゴメンねって言っておけばいいのよ」なんていうねじれた道徳観を教え込むわけにはいかないだろうし,愛国道徳観を強調する方々としてもお気に召さないのではないか。
 今日(12/24)はクリスマスだし,実によい天気だし,3連休のラストなので,家でのんびり年賀状でも書いて,子どもと散歩でもして過ごそうかと思っていましたけれども,諸事情ありまして,事務所に仕事に出掛けることになりました。

 駅売りの新聞を見たら,ほぼ一斉に,薬害肝炎訴訟の一律救済のニュースが一面トップでした。
 ちょうど今朝書いたブログのテーマと同じでした。

 駅の売店の前で「これって政府のX'masプレゼントなのかな」とちょっと頭をかすめましたが,即座に「いや,それは違う!」と打ち消しました。

 こういった救済措置は,憲法的な価値観からすれば,政府としては当然に為すべきことであって,特典(プレゼント)でも何でもありません。
20071224084019.jpg また,これは願って上から与えられたものでもなく,当事者をはじめ市民の手で自分で勝ち得たものです。
 たとえ現実的障害はいろいろあろうとも,それを乗り越える責務が国民に課されているのでしょう。
 まさに「憲法が国民に保障する権利」「不断の努力」によつて獲得したものと評価すべきです。

 さきほどの記事の繰り返しになりますが,法律が成立するまで,引き続き,市民が声を上げていく必要があります。

 さて,この写真は,こういうカタイ話とは全く関係ありません。

 せっかくクリスマスだということで,本日の朝食にパパ特製のオムライスを作ったものです。
 写真では一見よさげに見えますが,実は,かなり失敗してしまったので,ケチャップでツリーや★を書いてゴマかしたものです。
 家庭では「普段の努力」が足らないので,こういう日に努力をするのです。
 薬害肝炎問題で,福田首相は,議員立法によって一律救済を図ることを宣言した。

 そのこと自体は,素直に喜びたいと思う。

 もちろん不安が払拭されたわけではない。
 被害者のお一人である福田衣里子さんはブログの中で(→こちらより),
 内容がわからない段階では、喜び半分、不安半分です。
 というのも、この総理の決断が、
 愛のある決断であるか、その場しのぎの決断であるかで、全く違う内容になると思います
と語っているが,この言葉に,事の本質が全てが集約されていると感じる。

 これまで,政治家の前向き宣言が,単なるポーズやぬか喜びで終わった例は少なくない。
 ここ1年の間だけ見ても,「年金の全件処理」,「原爆症認定の見直し」,「沖縄戦教科書検定の見直し」など,議員や大臣が格好良くアクセルを踏みながらも,役人が急ブレーキを掛けてきた例は枚挙に暇がない。

 たとえば「被災者生活再建支援法」も,議員立法で市民救済が図られた法律の一つである。
 しかし,平成10年の成立時には,極めて不十分な内容であり,かえって被災者を苦しめた。
 これをまともな救済法に修正するまでに約9年の月日を要した,という例もある。

 先日,ある官僚の方から,議員立法の作り方についてお話を聞いた。
 私たちは,議席数さえ確保できていれば,
   「議員の法案作成」→「議員による議案提出」→「国会で議論」→「成立」
という形で簡単に議員立法が通るとイメージしがちである。
 しかし,それは大間違いとのこと。
 「立案」から「議案提出」に至るまでの間に,“関係省庁との調整”や,“財務省の折衝”,“内閣への打診”など,水面下のハードルが無数に存在するというのである。
 むしろ,「議員立法」という手法の方が,内閣が提出する「閣法」に比べてハードルの数は圧倒的に多く,成立までの道程は困難なのだそうだ。
 これらをすっ飛ばしてムリヤリ通したとしても,政令や規則制定,実際の運用方法などによって,法律を骨抜き・無力化するのは,行政にとっては,極めて容易なことなのである。

 しかし,正しいことを推し進める限り,ハードルを越えることは可能だし,何としても越えなければならない。
 福田衣里子さんの言うように
総理を動かし、国を動かしたのは、紛れも無く応援してくださる皆さんの力です。
というのが正解である。
 市民の声の後ろ盾は,法律成立のその日まで必要である。
 政府が手抜きをしたり,議員が途中で失速するのも,市民の声が途切れてしまうからだ。
 本当に肝炎被害者の方々を思うならば,これからもしっかり見守り,エールを送らなければいけない。
 こういうときこそ,基本に立ち戻って,憲法が「主権が国民に存する」,「国政は、国民の厳粛な信託によるものである」と前文で宣言していることを,わたしたち自身がここで自覚しなければならない。


 蛇足になるけれども,私は,福田首相が「司法、行政の枠内で答えを出す」とか「司法、行政の枠を超える」などと繰り返してきた点に,違和感を感じていた。

 まず,「司法」にツケを回すのは,「司法」の立場からすれば,いい迷惑だ。
 司法は,枠の設定をする役割を担っておらず,枠から外れているかどうかを事後的に判断するのが本来の役目である。薬害事件についても,国の違法を判断するという役目を果たしている。
 言い換えれば,司法の示した基準は,「これからの救済の枠組み」に関する事柄ではない。
 それを考えるのは,立法・行政の本来的な責務ではないか。

 また,「行政」の枠というけれども,わが憲法は,議院内閣制を採用し,立法に対して連帯責任を負っている。
 したがって,内閣が,法律の不備を逃げ口上にすることは許されない。
 先に指摘したように,我が国の法律のほとんどが「閣法」で成立しており,「議員立法」は例外になっているのが実情である。なので,「行政の枠内」という言い訳は,怠慢を自白しているに等しい。

 私は,首相の今回の「勇気ある決断」を支持する。
 ただ「勇気」は一時的・場当たり的なものであってはならず,決意を実現するまで「持続する勇気」でなければならないという念押しをしておきたい。
 そして,繰り返しになるが,この「勇気の持続」を,後ろで激励し,時には厳しく叱咤するのが,市民の声である。
kobe1222.jpg (沖縄を除く)全国の12/22付の新聞で,神戸新聞と北海道新聞の2紙だけが,朝刊1面トップで,
    沖縄戦 集団自決 教科書問題
    「軍強制」記述認めず
    検定審小委 訂正申請で一転

という記事を掲載した。

 ご立派だ!

 これは共同通信が配信した記事のようだが,このようなニュースは,どういうわけか無料新聞サイトにも掲載されない(その点,沖縄タイムスは,さすがだ。→こちらです)。
 神戸新聞・北海道新聞掲載の共同通信の記事は,後に引用しておくのでご覧いただきたい。

 さて,参議院選ショックの熱さが喉元を過ぎたせいか,薬害肝炎対応,原爆症認定見直し,生活保護基準など,すっかり中央官僚筋の人々は,ケロッと元の悪癖を取り戻している。

 この教科書検定の問題も,ひどい話である。

 記事によれば,渡海文部科学大臣が調整を付けようとしていたが,
    教科用図書検定調査審議会・日本史小委員会
が再び「軍強制」の言葉を排除しようと暗躍しているようである。

 この種の審議会の委員には,「専門性」が要求されるので,一般的には大学教授などが選ばれるわけだが,専門家だからといって,必ずしも「中立」「公正」ではない,というところに注意しなければならない。
    専門性 = 知識経験が豊富
ということに過ぎないのであって,
    専門性 ≠ 中立性
    専門性 ≠ 公正性

というところに,誤解をしないようにしなければならない。
 もちろん委員になった後は,中立で公正でなければならない。
 ただ,専門家だから当然に中立で公正な人である,とは限らないということである。

 したがって,政治家が,審議会の中立性を過度に期待するのも誤りだし,言いなりになるのも誤りであり,時には民主的判断を優先させる勇気を持つことも大切である。

 今回の騒動の中心にいる「教科用図書検定調査審議会・日本史小委員会」のメンバーの氏名は,きちんと公表されていないのではっきりしないが,後に引用する国会審議の内容からすると,
   ◆広瀬順晧氏(駿河台大学教授)
   ◆有馬学氏(九州大学大学院教授)
   ◇上山和雄氏(国学院大学教授)
   ◇波多野澄雄氏(筑波大学教授)

の4人ということである。

 この4人に,これほど大きな社会問題となっている事柄を決定できる権限が与えられているわけではない。
 しかし,政府が大きく振り回されているのも事実である。

 4人のうち,広瀬順晧氏と有馬学氏が,「新しい歴史教科書をつくる会」の一派と関わりを持っていることは,既にいろいろなところで明らかになっている。
 (→たとえば,「恒久平和のために」さんとか,「なごなぐ雑記」さんを参照のこと)

 学問的な知識・経験が豊富であることは間違いないが,少なくとも主義主張の点において,中立性が疑問視される立場にあることは否定できないだろう。

 たとえば,有馬学氏の著作として「帝国の昭和」という本がある。
 私もこの本を手にとって読んだわけではなく,Amazonに出ていた他人の書評の又聞きに過ぎないので,少なからず誤解があるかも知れないが,次のようなスタンスで記述がなされているらしい。
■太平洋戦争のような愚挙に及んだのは,当時,誰も戦争が愚かだとも悪だとも思っていなかったからである。
■総動員体制が支持されたのは,当時,日本社会を一気に高く引き上げる策だと考えていたからである。
■開戦は,各政治勢力がその時その時の最悪の選択を避けようとして行った決定の積み重ね
■誰が主導者であったかより、どのように開戦という選択に結びついたかが大切である
 確かに,そのような捉え方は,客観的で正鵠を射ているようにも聞こえる。
 しかし,このような歴史把握の手法は,中立的なのだろうか。
 否である。
 上記のような考察の姿勢は,見方を変えれば,
   「(自国の)責任問題を避けて通る」
   「(現代から振り返ることなく)当時の視点で正当化する」
   「(反省するより)現状を肯定していく」

という姿勢とも受け取れる。
 これは,沖縄戦だけでなく,まさに慰安婦問題,南京事件,原爆正当化など,問題となっている歴史問題のベース(根幹)にある歴史観ではないか!

 その妥当性について,善し悪しを言うつもりはない。
 しかし,議論のある歴史観を,いくら「専門性」があるからと言って,中立性・公平性が要求される審議会の場で,通すことは正しいことなのだろうか。

 民主主義が,「専門性」の名の下に,骨抜きにならないよう注意を喚起したい。

以下,今日の記事の元ネタとなった,国会議事録の一部と,新聞記事を引用しておく。
 12月21日に兵庫県弁護士9条の会の「望年会」がありました。
 「忘年会」ではなく「望年会」と銘打っているのは,来年以降の未来への希望を込めてという趣旨ということです。
 末席の私も,ほんの30分だけ顔を出してきました。

 今回の会には,飛び入りで,神戸女学院大学の学生さん3名が参加してくれました。
(別にそれが目当てで行ったわけではないのですが,メンバーの中にはそういう動機の方もいたかも知れません。うーむ,言い訳がましいか。)
 そのおかげで,弁護士ばっかりの内輪の会ではなく,「望年会」の名にふさわしいパァーッとした明るい会合になりました。

isikawazemi.jpg さて,女子学生ということで一見キャピキャピした(死語か?)感じがしますが(もちろんルックスは極めて華やかですが),なかなかどうして,参加された3人のみなさんはツワモノでありました。

 彼女らは,神戸女学院の石川康宏ゼミ生です。
 石川先生の実践的な研究活動の片鱗に触れ,目が覚める思いがしました。

 石川先生のご活動は,同先生のブログ
「はげしく学び はげしく遊ぶ(石川康宏研究室)」
をはじめ,いくつかの関連HPご覧いただければ一目瞭然ですが,文字通り激しく,かつ,素晴らしい!
 この本,
    「『慰安婦』と心はひとつ 女子大生はたたかう」(かもがわ出版)
なんていうのも,なかなか泣かせる本はないですか。

 私が感銘を受けたのは,
◆学生さんが(自費で)韓国の「ナヌムの家」へ訪問し,実際に慰安婦となったハルモニの方々に触れ合い,接してきた経験を,自分自身の言葉で語る瑞々しい感性

◆実際に靖国神社への見学に行ってみて(ちなみに私は行ったことがない),その問題性を,実にストレートに見抜く眼力
といったところです。

 どんなことを言っていたのかは朦朧として再現できませんが,感想のみ。
 私は,まだまだ「(良い意味で)若い」と思っていましたけれども,かなり熟年化してきているのを感じると共に,次世代の頼もしさを感じた次第です。
 日本の未来は,まだまだ明るい。
 望年会万歳!
 わが事務所の呼称は長いのでANCLという愛称を提唱していますが、全く定着しません。
(※「弁護士法人芦屋西宮市民法律事務所」=shiya ishinomiya itizen awoffice の略)

 さて、なんとなく集まってスタートし、メンバーがそれぞれ好き勝手に仕事をしているわが事務所も、少しずつ人が増え、とうとう弁護士10人体制となりました。

 注目を集めたロースクール1期生の二回試験(=司法研修所の卒試)は、何と6%が落っこちるという厳しい結果でした(※わたしの頃には、まず落ちる人がいなかった)。
 しかし、わが事務所に就職予定の2名の弁護士は、やすやすとパスし、12月20日をもって、見事、弁護士登録を果たしました。

 早速、関係各位には、新年の年賀の挨拶状で紹介をさせていただくことにしましたが、ブログのお客様には一足早くご紹介申し上げます。(事務所の紹介も兼ねていますので)
     ↓
 災害復興分野の第一人者は誰か?と尋ねられたとき、いろんな分野があるので、いろんな人が挙げられると思いますが、ナンバー1の行政マンということであれば、文句なしに、渋谷和久さんを挙げたいです。

sibusan.jpg 渋谷さんは、現在、国土交通省九州地方整備局総務部長の職にありますが、
過去に内閣府防災担当企画官などを経ており、この分野の最前線にいらっしゃったこともあります。

 今年改正された被災者生活再建支援法を、被災者のために使いやすい制度にしようと、行政の立場からご尽力された方でもあります。

 そして、何よりもお人柄や行動・言動が、
    「外に開かれている」
というところに敬服します。
 どうしても行政担当者というと、内向きで閉鎖的なイメージが付きまといますが、渋谷さんに限っては、そういうところは全くありません。

 多忙な行政職のかたわら、
   関西学院大学災害復興研究所客員研究員、
   日本自然災害学会会員、
   地域安全学会会員、
   災害情報学会会員、
   NPO法人「都市災害に備える技術者の会」企画委員、
   「東京いのちのポータルサイト」理事、
   「京都災害ボランティア・ネット」理事
などの肩書きも持っていて、活動家・実践家でもあります。

 このブログは、「しぶさんの防災日記」というタイトルで、今年の6月からスタートしています。
 きっちり毎週更新で(このあたりの定期的にきっちりやるところが行政マンらしさだ。)、防災に関するお役立ち情報満載です。

 いずれは、新書か文庫にでもして、発刊いただきたいところです。

 現在、関西学院大学の災害復興研究所でご一緒させていただいていますが、今後のわが国の防災行政をリードするお一人であることは間違いありません。
「マリと子犬の物語」のロードショーが始まった。
yamakosimari.gif
 この映画は、新潟県中越地震であった実話をまとめた「山古志村のマリと三匹の子犬」というお話を映画化したものだ。

 地震による全村避難によって山古志村に置き去りになった「マリ」の生活と、飼い主との再会までのストーリーなのだが、この絵本には、復興への強いメッセージが込められている。
 災害そのものを題材にした映画は多いが(たとえば「日本沈没」とか「タワーリングインフェルノ」とか)、災害の後の傷跡から立ち上がったり、復興への姿を描いた映画は、あまり目立たない。

 この「マリと子犬の物語」は、山古志村の美しさと、復興へ立ち上がろうとする姿がストレートに描かれていて、是非、応援したい。

★映画の公式ページ
 http://mari-movie.jp/index.html

★「がんばれ 山古志村のマリと三匹の子犬たち」(→お勧め!)
 http://www.soiga.com/tmp/kyoyu/santogun/08/


★文芸春秋のページ
 http://www.bunshun.co.jp/yamakoshi/
 神戸のルミナリエは、17日をもって、クリスマスを待たずに早々に終わってしまった。
 協賛企業が次々に撤退し、資金的に長く続けるのがしんどいというのが理由だ。
 イルミネーションの設置費用もさることながら、警備費用もばかにならないらしい。

 今年は、継続のために市民への募金の呼びかけを大々的に行っていた。
 「募金をしないとやめちゃうぞ!」と脅迫されているみたいで、なんとなく心寒くなる。
 現在は実質・行政主導のイベントだが、資金源を市民に頼るのであれば、市民主催型のイベントへの移行の姿勢をはっきりと打ち出さないと、うやむやのうちに消えてなくなってしまうのではないか。
 心配だ。

 そういう心配もあるが、ただ、ルミナリエの子孫は、あちこちに広がっている。
 夜のまちを歩いていると、自宅に大きな電飾をデコレートしている家が増えた。こういうのを「イエナリエ」というらしい。
 こういうのをさらに一歩進めて、加古川だと「カコナリエ」、尼崎だと「アマナリエ」、山田さんの家だと「ヤマナリエ」、わたしの家でやったとしたら「ツクナリエ」と呼ぶらしい(ホンマか?)。
 中心市街地で大イベントをやるのも一興だが、住み慣れた街角で心温まる取り組みが見られるのも、よいものだ。

20071201184945.jpg 20071222183432.jpg

 以前に紹介した西宮北口商店街が行っている津門川のイルミネーションであるが、その正式名称は、「コ・ルミナリエ」というそうだ。
 まさに、ルミナリエの「子」ということで、親が終了しても、まだまだ毎日元気に町を元気付けている。

 さらに、駅をはさんで反対側には、兵庫県芸術文化センターがあるが、その前に大きなクリスマスツリーが出来ている。
 センター内では、音楽、演劇などの芸術が繰り広げられているが、センターの外にあるツリーもなかなか芸術的ではないか。

 文化や芸術の効能が、人の心を豊かにするところにあるとするならば、このような町々の小さな試みこそが、まさに直接的に心を豊かにする「文化・芸術」といえるのではなかろうか。
 以前、今年の8月10日に亡くなったジョー・オダネルさんのことを取り上げました。
 ジョー・オダネルさんは、ホワイトハウスの公式カメラマン(米軍軍曹・アメリカ空爆調査団)で、「焼き場に立つ少年」の写真などで知られています。
 ningen
 (この写真は、横井久美子さんのCDのジャケットです。→こちらより

 オダネル氏は、原爆投下直後の長崎・広島に入り、数ヶ月の間、調査活動を行いました。
 被爆地の放射能に晒された影響もあって、彼は、晩年、原爆症で苦しんだとのことです。

 オダネル氏は、3年ほど前に長崎・広島に来訪しました。
 この少年を探すためです。
 その際のドキュメントは、TBSで番組化され、その作品は、数々の受賞を得ているようです。
(→こちらのページに紹介されています。

 わたしは、憲法の講演などに呼ばれたときは、この写真のことを紹介します。
 先日、教科書に出ているという話を耳にしました。
 ある先輩弁護士が一生懸命探し回って、その教科書を入手しました。

 わたしの知っているインタビュー記事は、ほんの一部に過ぎないということを知りました。
 その教科書は、
    学校図書株式会社発行の 「中学校国語2」(中学2年生のための教科書)
でした。

 そこに書かれている「目撃者の眼」という文章の内容は、次の記事で引用させていただきますが(12月16日付記事)、特にわたしが感じ入ったのは、この教科書に付属している
   「国語科  年間指導計画」
      の中の
   「学習の目標と評価について」
というところです。
 つまり、この教材をどんな風に使って欲しいのかという教科書の出版社の意図がはっきりと書いてあるのです(→こちらから

 まず、「学習目標」については、

一枚の報道写真とその写真を撮ったカメラマンの文章を通して、映像について関心を持つ
  →戦争に関する認識を深める。
     →写真から受けた印象を言葉にして、写真と共に発表し交流する

とあります。
 次に、「学習内容」については

戦争について調べ、さまざまな形で発表する。
  →印象に残った写真のコピーにタイトルや説明などを書き込んで、写真展や写真集の形で発表する

とあります。
 さらに、高めるべき「関心」については

日ごろから新聞やテレビなどの報道に興味を持って接し、この単元の調べ学習や写真の学習に意欲を持って取り組もうとしている。

とあります。
 そして、「話す・聞く・読む」力としては、

写真や詩に触れることを通じて、当時の人々のことや現在の自分たちのことをさまざまに感じ、想像し、思うことができる。

とされています。

 これこそ教育ではないでしょうか。

 道徳心とか、徳育だとか言いますが、そんな抽象的で概念的なことを画一的に目的化することはナンセンスです。
 そうではなくて、教育の目指すものは、もっと具体的であるべきでしょう。
 たとえば、このように通常の国語の授業の中で、教科書をきちんと正面から学ぶことで深めていくことができるのではないでしょうか。
 これは学校図書「中学校国語2」の中で紹介されているジョー・オダネル氏のインタビュー記事です。
 文章を書いておられる上田勢子さんは、写真評論家・翻訳家で、アメリカの写真家の作品を扱うプロモーターだそうです。
 教科書の紹介文には、「加害者にとって原爆による攻撃とは何だったのか。直立した子供の映像が問いかけます。」とあり、テーマは【国際理解、情報化】とあります。

 以下引用の上、次の12月17日付の記事に続きます。

目撃者の眼

 佐世保から長崎に入ったわたしは、小高い丘の上から下を眺めていました。すると白いマスクをかけた男たちが目につきました。男たちは五十センチほどの深さに掘った大きな穴のそばで作業をしていました。荷車に山積みにした死体を石炭の燃える穴の中に次々と投げ入れていたのです。

P01_s.jpg 十歳くらいの少年が歩いてくるのが目にとまりました。おんぶひもをたすきに掛けて、幼子を背中にしょっています。弟や妹をおんぶしたまま、広っぱで遊んでいる子供の姿は当時の日本でよく目にする光景でした。しかし、この少年の様子ははっきりと違っています。重大な目的を持ってこの焼き場にやって来たという強い意志が感じられました。しかも足ははだしです。少年は焼き場のふちまで来ると、硬い表情で目を凝らして立ち尽くしています。背中の赤ん坊はぐっすり眠っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。

 少年は焼き場のふちに、五分か十分も立っていたでしょうか。白いマスクの男たちが静かに近づき、ゆっくりとおんぶひもを解き始めました。この時わたしは、背中の幼子がすでに死んでいることに初めて気づいたのです。男たちは幼子の手と足を持つとゆっくりほうむろうとするように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。

 まず幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。それからまばゆいほどの炎がさっと舞い立ちました。真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけないほおを赤く照らしました。その時です、炎を食い入るように見つめる少年の唇に血がにじんでいるのに気がついたのは。少年があまりきつくかみしめているため、唇の血は流れることもなく、ただその下唇に赤くにじんでいました。夕日のような炎が静まると、少年はくるりと焼き場に背を向けて、沈黙のまま去っていきました。

 わたしは言葉さえかけることのできなかったこの少年が気になって仕方がありませんでした。自分で慌てて着たようなしわしわの服、はだしの足、おんぶひももよじれてかかっていました。もしかしたら家族をみんななくしてしまったのかもしれない。服を着せてくれるお母さんはもういないのか、家はあるのだろうか、考えれば考えるほど気になります。そこでわたしは日本の新聞にこの写真を載せてもらいました。「どなたかこの少年を知りませんか?」という問いかけを添えて。知り合いに頼んで何度も載せてもらいました。でも、なんにも反応はありませんでした。わたしにこれほどの衝撃を与えたこの少年は、たった一枚の写真を残していなくなってしまったのです。

 長崎に三か月滞在し、それから広島に行きました。そこでも悲惨な写真をたくさん撮りました。わたしは戦争の写真を撮りながら、自分にこう言い聞かせてきました。これは将来のために撮るのだと。わたしの見たものをみんなに見せるために撮るのだと。カメラはわたしの眼だったのです。

 日本に行くまで、わたしは日本人を見たことがありませんでした。終戦直後、日本に初めて行ったわたしは、日本人の丁寧さにただただ驚きました。こんな大変な時に、これほど礼儀正しい国民がいるでしょうか!一九四五年の九月から七か月間の日本滞在の後、何度も日本に行きました。友達も増えました。五十年以上のつきあいになる友人もいます。

 戦争は二度と繰り返してはなりません。原爆は決して落とすべきではありませんでした。戦争終結に必要だったという人がいます。でも、だれが何と言おうとわたしはこの眼で見たのです。原爆でやられたのは、老人と女たち、そして子供たちだったのです。原爆が必要だったわけなどありません。わたしは、死ぬまでそのことを言い続けるつもりです。なぜなら、You don't forget what you saw.(見たものは忘れない)から。
 改正被災者生活再建支援法が,12月14日付で施行されました。
 先日,能登半島に調査に行った際,仮設住宅にお住まいの方々から話を聞いた際,
  「実際に支給されるまで本当かどうか信じられない」
という率直な思いを口にされていました。
 
 従来の支援法は,
    そこそこに期待だけさせておいて後で激しく失望させる
典型的なシステムでしたが,今回の改正でかなり改善されました。

 ただ,「改善された」と言っているのは,行政政府関係者,法律家,支援者であって,当の被災者本人ではありません。
 実際に役に立つ代物になったのかどうかは,これからの被災者のみなさんの声にかかっています

 このあたりのレポートについては,ライブドアNEWSのフリー記者である渡辺直子さんのPJニュースが参考になります。
(記事中の仮設住宅の談話の写真には,私も小さく出ています。)

◆10/20 市民の支援サポート探すため第2次調査へ=復興支援ネットワーク・能登&中越沖
 http://news.livedoor.com/article/detail/3352431/

◆12/13 市民の支援サポート探すため第2次現地調査実施
 http://news.livedoor.com/article/detail/3427882/

◆12/18 「頑張ってます!能登半島」穴水町の仮設住宅の人たち
 http://news.livedoor.com/article/detail/3433486/

◆12/22 「支援金の支払いは、3~4ヶ月後の見通し」と能登・穴水町役場
 http://news.livedoor.com/article/detail/3440770/


sienho-pabukome.jpg もう一つお知らせしておきたいことがあります。

 この法律の改正に当たって,今年の8月末から9月初旬にかけて,パブリックコメントの募集が行われました。
 私も,例文を作るなどして呼び掛けさせて頂きました(たとえば,8月30日の記事など

 結果,このパブコメが全部で90通届いたそうです。
 そして,現在,その全ての全文がこのとおり公開されています。
 (→こちらのページの,「意見募集の結果(意見提出者別の意見)(PDF:198KB) 」というのをクリックすると,全71頁がダウンロードできます。ダウンロードはココ

 私の作った例文を利用して下さった方も少なからずいらっしゃるようです。
 ありがたいことです。
 呼び掛けに応えて下さったみなさんに,お礼を申し上げたいと思います。
 ありがとうございました。
 JR福知山線事故の被害者(負傷者)の方が,訴訟を起こしたとのことで,各紙にその記事が出ていた。
 今回の事故に関して,初めての訴訟になる。

 今回,提訴に及んだ負傷者の方については,私がかかわりを持っている
    「市民事務局かわにし」のつどいや,
    「4・25ネットワーク」の例会
で知り合う機会を得ていないので,どんな方がどんな内容の訴訟を提起したのかは分からないし,また,どんな気持ちで提訴に及んだのかということも,その思いを推し量るほか無い。

 ただ,知り合いの記者の方々から色々な情報を教えてもらって一つ分かったことがある。
 原告の方は,JR西日本の事故後の対応に対して強い憤りの気持ちを抱いておられるらしいということである。

 これだけの事件で最初に裁判に及ぶというのは,そのことだけで一定の決意が要るだろうと想像するけれども,その決断の動機の一つに,加害者であるJR西日本の対応の悪さがあるとすれば,たいへん遺憾なことである。

 記事だけを読むと,JRは「精いっぱい対応した」などとコメントしている。
 被害者の視点に立って見る限り,それは明らかに認識違いだ。

 補償交渉を考える勉強会も,回数を重ね(既に6回を実施),かなりJR西日本の被害者対応の進め方がはっきり見えてきている。
 JRは「国内の人身事故の一般的な基準を上回る額」(JR西広報部)を呈示しているというが,誤解を恐れずに端的に言えば,
    「金額が高ければいいじゃないか」
という姿勢が見え見えなのである。

 言うまでもなく,お金を出しさえすれば良いというものではない。
 いかに,被害者の立場に立って,個別事情に即した賠償ができるかというところがポイントである。
 「画一性」「公平性」「書類重視」などを強調しすぎると,20年前のお役所仕事と同じになる。
 JRは20年前に民営化したはずだが,当時の悪しきお役所体質を,脈々と受け継いでいる。
 その硬直性が,被害者の方々を追い込み,苦しめている,と思う。

 神戸新聞の記事に私のコメントも出ていたので引用させていただく。
被害認定、見解にずれ 尼崎JR脱線・負傷者初提訴

 尼崎JR脱線事故で、負傷者とJR西日本の補償交渉が、初めて訴訟に発展した。事故による後遺症や、心的外傷後ストレス障害(PTSD)などの精神的影響を訴える負傷者は少なくない。その被害認定をめぐる見解の相違と、感情的な対立が表面化した格好だ。

 神戸新聞社が今年三月、負傷者百人から回答を得たアンケートでは、27%が「後遺症が出た」▽20%が「治療(リハビリ)が続いている」とし、精神的影響についても、36%が「残っている」▽17%が「治療・カウンセリングが続いている」と答えた。

 こうした被害に対し、JR西は「国内の人身事故の補償基準をベースに、従来以上の補償」をする方針を提示。恐怖感で電車に乗れなくなった負傷者に、タクシー料金を支給するなどの対応も続けてきた。JR西によると十二日現在、示談した負傷者は七割強という。

 しかし、遺族や重傷者で交渉が難航しているケースが多いとみられる。

 被害者の間では、JR西の交渉態度に「高圧的」「進め方が強引」との不満がある。事故との向き合い方についても、謝罪はするが事故の背景となった企業体質への自己検証が弱い-との不信感が根強い。

 また、JR西は「従来以上の補償」を強調する一方、遺族や負傷者家族の心のケア、休業補償などは原則的に「補償の範囲外」とする。こうした「間接被害」の影響を訴える人との感情的ギャップは大きい。

 これらが、補償交渉に影を落としている。

 負傷者の支援に取り組んできた津久井進弁護士は「JR西は『責任は認める』といいながら、被害者が苦しみ続ける身体の痛みや心の傷に対して理解が薄く、個別の窮状に対する配慮がない」と指摘。「提訴は不満の表れの一つ。被害者の立場に立った対応への軌道修正が、JR西に求められている」と話す。(森本尚樹、中島摩子)
2007.12.12 すすむ旅館
20071210065213.jpg 能登半島視察では,輪島市の「米久」というお宿に宿泊しました。

 うるしのお宿と銘打っているように,あちこちに漆塗りの調度品が置いてある,立派な温泉旅館でした。
 海辺に立地する好条件ですが,眼前の浜は,全壊した家屋の解体廃棄物の置き場になっていて,この日は,その整備中でした。

20071210064857.jpg 翌朝(月曜日)に,尼崎の法テラスで法律相談の仕事があるので,わたし一人だけ早引けして,レンタカーに乗って帰りました。

 すると,旅館の隣に,ひっそりと立っている民宿の名前にびっくり。

 わたしの名前と同じではないですか。

 次はここに宿泊しようと思いました。
 (「ご飯が,ご飯が,すすむ君~♪」以来の親近感です)
 兵庫県弁護士会では,韓国籍の会員(弁護士)を,家事調停委員の候補者として推薦した。
 2名とも人格・識見ともに優れた,極めて有能な弁護士であり,本人に何らの問題もない。
 しかし,神戸家庭裁判所は,この2名の任命上申を拒絶した。

 兵庫県弁護士会としては,このような事態に遭遇するのは2度目だ。

 いろいろ議論はあるかも知れないが,少なくとも裁判所の司法行政は,法律解釈として非常に限定的・狭小的で,開かれた共生社会にそぐわないことは間違いない。

 弁護士会は,去る12月5日付で緊急に「上申書」を発し,昨日(10日),これを公表した。

 以下,その全文を引用する。
               兵弁総発第322号
                     2007年(平成19年)12月5目
最高裁判所
 長官 島 田 仁 郎 殿
神戸家庭裁判所
 所長 赤 西 芳 文 殿
                       兵庫県弁護士会
                           会長 道 上  明

                 申 入 書

第1 申し人れの趣旨
 1 神戸家庭裁判所は、兵庫県弁護士会が家事調停委員候補者として推薦した韓国籍の会員2名について、最高裁判所に任命の上申をしないとの取り扱いを直ちに撤回し、任命の上申をするよう求める。
 2、最高裁判所は、調停委員が「公権力の行使にたずさわる公務員に該当する」との取り扱いを変更し、直ちに外国籍調停委員の任命を認める扱いに変更するよう求める。

notonohanayone.jpg まだまだ公開は先のことですが,白羽弥仁監督映画「能登の花ヨメ」がクランクアップしたそうです。

 そのあらすじは,
 結婚式を控えた東京の女性が婚約者の実家がある能登を訪れ、都会生活で見失ったものを再発見していく物語。コメディーの要素も取り入れて明るいタッチの作品になる。
とのことですが,映画のことはこちらへどうぞ。
(→「能登の花ヨメ応援ブログ」

 撮影風景のレポートは,寿司をにぎる「手」だけ出演しているという,穴水駅前の「幸寿し」のご主人のブログをどうぞ。(→こちらhttp://kouzushi.her.jp/blog/

 さて,災害復興を題材にした映画はいくつかあります。
 神戸の災害復興については赤井英和の「ありがとう」
 新潟中越沖の復興については,今週よりロードショーの「マリと子犬の物語」
があります。今回の「能登の花ヨメ」と合わせて,災害復興3部作ということで,いずれは同時上映される日を待ちたいと思います。

 それから,被災後1年目の来年3月25日に
   Photo&Messege
   いとしの能登 よみがえれ!
   ボランティアの能登ノート

という写真集が刊行されます。

 企画・発行は
   震災がつなぐ全国ネットワーク
    (→http://www.npo-aichi.or.jp/shintuna/
 文章・プロデュースは,
   村井雅清さん(被災地NGO恊働センター代表)
    (→http://www.pure.ne.jp/~ngo/
です。
itosinoto.jpg

詳しくは,こちらをどうぞ。
(→http://www.npo-aichi.or.jp/shintuna/cat2/
2007年3月に発生した能登半島地震。

 以来,活動を続けているボランティアの手によってフォト・メッセージ『いとしの能登 よみがえれ!」は創られています。
 そしていよいよ完成が近づいて参りました。
 これもひとえに全国のボランティアさんの熱いご支援の賜物だと心から感謝しております。

 悠久の歴史を刻んだ能登,その歴史が育んだ文化と暮らし,そして自然の恵み。
 能登に昔から伝わることば「能登はやさしや土までも」に象徴されるやさしい風土。
 能登の祭りで聞いた“オイヤサー”のかけ声は,まさに“災害に負けないぞ!”と聞こえてきました。

 災害をきっかけに,能登のやさしさと出会ったボランティアが,1冊のノートに綴ります。

「復興支援ネットワーク 能登&中越沖」というグループがある。
ここが主催して,12月9日(日)~10日(月)にかけて,
  能登半島地震現地調査
を行うことになった。
私は,都合があって9日(日)の1日だけ参加し,再び能登の被災地を訪れた。

今回の参加メンバーは,震災研の出口俊一事務局長,神戸大の塩崎賢明教授,被災地NGO恊働センター代表の村井雅清さん,兵庫県の建築士の黒田達雄さん,堺市役所区の佐野祐美子さん,ジャーナリストの渡辺直子さん,兵庫県弁護士会の私の計7名であった。

私がレポートできるのは1日目だけなので,全体像が分かっていないが,軽く要点のみを書き残しておこう。

1 行程あれこれ

(1) 9日早朝に大阪駅からサンダーバードに乗って出発。

(2) 能登に向かう車中では,
   ・昨日の西宮北口のまちづくりの話(→別記事),
   ・映画「能登の花ヨメ」の話(→別記事),
   ・村井さんが企画中の能登ボランティアの写真集の話(→別記事),
   ・関西の学生ボランティアによる足湯隊の話(→いずれ別記事)
   ・支援法改正の裏話(→オモテの話は別記事多数),
   ・焼鯖寿司やタバコの話(→別記事ナシ)
などで盛り上がった。

(3) 終点和倉温泉に到着後,レンタカーに乗って穴水町へ。
 ところどころに震災の傷跡を残す能登有料道路では「がんばっています!能登半島」の看板を目にする。

20071209131108.jpg(4) 穴水町では,再建した「幸寿し」(→別記事)に挨拶した後,仮設住宅に訪問して住民の皆さんと“じんのび”と懇談。
 続いて,穴水商工会に出向いて,①能登いやさかフォーラムの方々,②穴水町商工会の方々,③映画「能登の花ヨメ」の白羽弥仁監督と,次々に懇談。

(5) いろんな収穫を得た後,すっかり真っ暗になった能登路を北上し,輪島市へ。
 宿泊先の漆塗旅館「米久」に到着し,漆塗りの大部屋に通され,温泉でしっかり温まった後,輪島市役所総務部長(復興諸施策の最前線の方)と,夜更けまで“じんのび”と懇談。輪島の復興の光と影の部分をしっかり聴取。

(6) なお,途中から参加の佐野さんは,京都駅で,片山善博さん(元鳥取県知事)とバッタリ出会ったそうで「みなさんによろしく」との言伝をお土産に。
 日付が変わろうとする頃に就寝し,これにて1日目を終了
(私は早朝にレンタカーで一人金沢から帰神。2日目は,輪島市の仮設住宅,門前町のまちづくり協議会,石川県庁の方々との懇談,という予定だ。)

つづきは以下のとおり....
12月8日に兵庫県震災復興研究センターが主催する,
  『復興まちづくり検証/フィールドワーク』
が,わが事務所のある地元の西宮北口地区で行われました。

残念ながら,私は,都合で参加できなかったのですが,翌日,様子をお聞きし資料をいただいたので,簡単に書き留めておきます。
(詳しくは「兵庫県震災復興研究センター」のHPをどうぞ。)

阪急西宮北口駅のあたりは,阪神淡路大震災で大きな被害を受け,
  ◆西宮北口駅北東地区 震災復興第二種市街地再開発事業
   (→アクタ西宮の建設など)
  ◆西宮北口駅南 土地区画整理事業
   (→兵庫県芸術文化センターなど)
  ◆西宮北口駅北東地区 震災復興土地区画整理事業
   (→高木西町など約31.2ha)
などが行われ,大きくまちなみが変わりました。

 13年が経過した今も,区画整理事業の一部は未だに完了しておらず,ずいぶんと長い時間が掛かっていますけれども,しかし,今回のフィールドワークを通じて感じられたのは,
    ○じっくりと話し合いを進めながら
    ○柔軟な対応

がなされきた点は,とても高く評価できるということです。

ここで「柔軟」というのはどういうことか,というと,
  ・道路は,必ずしも真っ直ぐでなくて良い
  ・両側の歩道は,必ずしも対象形でなくても良い
  ・道路施工の要綱の遵守などは,必ずしも絶対の基準ではない

というたぐいの事柄です。

こんなのは当たり前のことのように思われるかも知れません。
しかし,こういうところに,市と住民の対立が起こったり,まち全体を巻き込む難題が潜んでいたりします。
公共事業の限界は,こういうところに隠れているのです。

憲法上は,
   個人の価値 > 公共の利益
ということになっています。今の憲法では,ここの部分の優劣の序列は,はっきりしています。
しかし,私たちの日常生活の中の意識には,
   公共の秩序 > 個人の利害
という考えが染みついていたりします。

たとえば,役人を長年やっていると,ここのところがサカサマになっていたりして,本末転倒な事態になったりします。

そこのところの微妙な調整を目に見える形で実現するのが「まちづくり」です。
西宮北口周辺のまちづくりでは,それが上手に実現できている由。

わが街のあちこちに,その片鱗が存在しているということを知って,嬉しく感じました。
住民の方々と,事業担当の職員の方々に敬意!
 12月8日
 今日は何の日でしょうか?
 今日の,日本の新聞にはほとんど何も書かれていません。

 昭和16年のこの日の午前2時ころ日本陸軍がマレー北部に上陸,
 午前3時ころ日本海軍がハワイ真珠湾攻撃を開始し,
 アメリカ・イギリスとの間で太平洋戦争が開戦された日です。

 アメリカの新聞には,12月8日は,「忘れてはならない日」として,必ず何かコメントが載るそうです。
 その代わり,8月6日も9日も15日も,アメリカではあんまり理解も認識もないそうですが・・・。

 やはり,どこの国でも,
     加害者となった日
は忘れても
     被害者となった日
は忘れない
ということなのでしょうか。

 国レベルでも,企業レベルでも,市民レベルであっても,同じで,
 忘れちゃいけないのは「過ちを犯した側」・「加害者側」なんですけどね。
(なお,ここで歴史観論争をするつもりはありませんので,悪しからず。)


関連するかどうか分かりませんが,明日,神戸で開かれるコンサートのお知らせです。
sensoudesinda.jpg

神戸市役所センター合唱団の演奏会です。
 12月9日 午後2時開演 神戸新聞松方ホール
です。詳しくは,神戸市役所センター合唱団のホームページをご覧下さい。

今回のコンサートのテーマにもなっている,小泉吉宏さんの作品
  「戦争で死んだ兵士のこと~これは戦争の話ではありません~」
ですが,この絵本は,一度出版された後にいったん絶版になった後,再び出版されたのだそうです。
この日には小泉吉宏さんのトークもあるとのことです。

こちらに,「戦争で死んだ兵士のこと~これは戦争の話ではありません~」の全文が引用されています。ゆっくり読むと泣けます。→こちらです
「九条の会」の活動は,まるで申し合わせたように,新聞等は取り上げません。
しかし,神奈川新聞が,社説で「九条の会」のことを取り上げました。
http://www.kanaloco.jp/editorial/entry/entryxiinov071128/
まずは,神奈川新聞の高い見識と,勇気ある姿勢にエールを送ります。

 どうも「九条の会」というと,共産党や社会党のような,既存政党の別働隊みたいなイメージで捉えられがちで,私も戸惑うことが多いです。
 しかし,この社説の中で指摘されているように,「九条の会」は,保守,革新を問わず,護憲の連帯のつなぎ目の役割を果たしているのが実情です。
 私も,自分自身は,
     「国の基本たる憲法に忠実,という意味で保守本流」
のつもりなので,この社説にあるような理解が広がっていくことを期待したいです。

 また,この社説でいいことを言っていると思うのは,
     「意見の違いを尊重」
        ↓
     「新たな視点から憲法的意義を再認識」
        ↓
     「多様な取り組み」

ということをアピールしていることです。
 これこそまさに,
    「憲法の本質を捉えて」
    「憲法を広げ,根付かせていく」

活動そのものだと感じるのです。   

 ところで,加藤周一さんが「安倍より福田が手強い」と指摘するのも,もっともです。
 安倍流だと,多くの人が覚醒して「たいせつなこと」に目覚め,声をあげます。
 しかり福田流だと,私たちが気付かないうちに隠密裡に「たいせつなもの」を失ってしまうかも知れません。

 安倍流(=症状が顕著な伝染病)<福田流(=無症状で進行する癌)

というところでしょうか。


以下はその神奈川新聞の記事の引用です。
(横書きなので,漢字を数字に変えました。読みやすいように改行し,強調した部分は津久井によります。)
多様な議論の広がり期待

 憲法9条の擁護を訴える「九条の会」の第2回全国交流集会が都内で開かれた。
 大江健三郎さんらが記者会見でアピールを発表してから約3年半、これに賛同する各地域、各分野の「九条の会」は現在までに全国6801、県内302に達したという。
 この1年半に、全国で1627、県内で57増えた。
 集会には全都道府県から約1000人が参加し、すべての小学校区(約22000)に草の根の会をつくるという壮大な目標も掲げた。
 改憲をめぐる攻防において、「九条の会」は護憲側の連帯の結節点となりうる存在だけに、活動の行方を注目したい。

 「九条の会」は、9条改定を阻止するという一点のみで連帯するユニークな市民運動だ。
 大江さんのほか、井上ひさしさん、7月に亡くなった小田実さんら作家、学者ら9人が呼び掛けた。
 草の根の会の結成は、それぞれ当事者任せ。
 非武装中立派から、政府の現在の九条解釈論を支持する自衛隊・日米安保容認派まで、会員は“多様性”を誇っている。

 集会では、保守系議員らが参加している例も報告された。
 世論調査では改憲賛成派が過半数を超えているが、こと9条に関しては、改定反対派が賛成派を上回っている。
 「九条の会」は、そうした幅広い世論を背景にしている。

 政局を見ると、任期中の改憲をうたった安倍内閣があっけなく崩壊したことで、改憲への動きにはブレーキがかかった。
 7月の参院選では、安倍前首相が焦点の一つに改憲を掲げたにもかかわらず、世論はほとんど反応しなかった。
 国民が改憲を急ぐ必要性を感じていないことは明らかで、福田首相も改憲問題には終始、慎重な姿勢を見せている。

 現状は9条擁護に追い風が吹いているかに見えるが、集会では楽観論を戒める声も上がった。
 呼び掛け人で評論家の加藤周一さんは「安倍内閣より福田内閣の方が手ごわい。自衛隊派遣恒久法など、解釈で九条を空虚にしていく手法が取られるだろう。長丁場だ。これからが大変」と語った。

 今後について「九条の会」事務局は、「各会が援助し合いながら『空白区』を埋めていく。ネットワーク化の取り組みを進める」という。また教育問題など九条以外の政治問題でも「大きな団結の一方、意見の違いを尊重して多様な取り組みを進めてもらいたい」と話した。
 こうした新たな方針が効果を発揮するかどうか、会にとっても正念場だ。

 国会では改憲派が3分の2を確保。
 国民投票法の成立により、最短で2010年の憲法改正発議も可能だ。
 ただ今後は米朝関係の進展などによって東アジアの秩序が大きく変わることも予想される。
 「九条の会」には、新たな視点から9条の意義を再認識させるような創造的な議論を期待したい。
 ニュースなどで「ねじれ国会が問題だ!」などとよく報じられます。

 私には,これを問題視する理由が全く分かりません。

 なぜなら,憲法では,衆議院と参議院は別々だと決めているではないですか。
 したがって,それぞれの議院が,別々の意見になるのは当たり前で,だからこそ憲法は衆議院の優越性等も設けているのではありませんか。
(衆議院の再議決を疑問視する意見もありますが,それも筋違いだと思います。)

 なかなか法案が通らないことを問題視する意見もあります。
 しかし,それはそもそも法案自体に問題があるか,あるいは,十分に議論が尽くされていないか,そのどちらかです。
(現在展開されている,政治的な牽制や駆け引きによる流動状況は,憲法の想定外の事柄というべきです。)

 そうだとすると,現在の国会はねじれているのではなく,ようやく本来あるべき姿になったのだから,つつがなく運営したいと思ったら,本来の原則に戻って事を進めればいいと思います。

 「本来の原則」とは何か?

 いうまでもなく,憲法に素直な姿勢で臨めばよいわけです。

 これまでの政治が,憲法の枠内で行われながらも,憲法の原則をねじったりひねったりしながら進められてきたので,いろんなひずみが生じました。
 そのゆがみが一気に放出されたのが,今年の参議院選挙でした。

 今,憲法に定めたとおり健全な二院制の国会が調ったのですから,あらためて憲法に則った政治が行われればいい。
 そうすれば国政は円滑に進みます。

 現に憲法の趣旨に適った被災者生活再建支援法は全員一致で可決したではありませんか。
 今朝のニュースで,大阪府知事選に,橋下徹弁護士が自民・公明推薦を受け,出馬の意向という報道が流れていた。

 びっくりした。

 橋下弁護士は,弁護士業界の世間話でもよく登場する。
 業界外の方々とお話しするときでも,頻繁に話題に出てくる。
 わが業界での最も有名人であることは間違いない。

 以前にも,何度か彼の話題を取り上げたが,しかし,大阪府知事選に出てくるとは,何とも驚いた。

 橋下氏の言動は,はっきりした保守系タカ派なので,自・公推薦というのはうなずける。
 が,それにしても「当選しさえすれば何でもよい」みたいな感じは否定できず,政権与党の底力というか,なりふり構わぬ仕業にはおそれいる。

 なんとなく横山ノック候補と同じようなノリだ。
 こうなると,大阪的な大衆性で勝負するには,民主党は,西川きよしさんか,上沼恵美子級の大物を出さないと勝てないのではないか。

 ただ,橋下氏自身は,自分の出馬を,どう受け止めているのだろうか。

 橋下さんは,ご自身のブログで,今年3月,丸山弁護士が東京都知事への立候補が取り沙汰された際に,
 ただ、丸山弁護士は非常に思慮深く先を読まれる御仁。
 これから演説をぶちまける準備はできているんでしょうか?
 政策論争ができるだけの準備をしていたのであればスーパーマンです。
とか,
 そういえば、『行列のできる法律相談所』の収録のとき、
 隣でこそこそやっていたのは、都政の勉強?それともいつもの落書き?
 いずれにせよ、週明けには意思表明するとのこと。
 ドキドキします。でも、ほんと日本中を騒がせてくれますね!!
などと,皮肉なのか応援なのかよく分からないコメントを寄せていた。

 このコメント,今回の橋下氏にそっくりそのまま当てはまりそうだ。
 落とし物の取り扱いを定めた法律が,遺失物法です。
 この法律が改正されて,この12月10日から施行されます。

 新聞の政府公報にも出ていたので,地味ですが,知っておいて損はないでしょう。

 そういえば,私も,弁護士になりたてのころ,弁護士手帳を落としたり,作ったばかりの名刺入れを落としたりして,ゾーっとしたのを覚えています。
 キャッシュカードを落としたときに,警察署に行って,届出をしてくれた人がいたのを知ったとき,どんなにありがたいと思ったかを,思い出します。

 改正遺失物法のポイントは,以下のとおり。

◆インターネットで落とし物の検索ができる。

◆保管の期間が3か月に短縮

◆犬や猫は,落とし「物」ではない

◆キャッシュカードを拾っても自分のものにはなりません

◆傘や衣類などは,落として2週間で売られちゃう


 以前,サンテレビのニュースシグナルで,兵庫県弁護士会の石井龍一先生が,解説をしていたので,それも参考になりますよ。
→こちらですhttp://www.sun-tv.co.jp/signal/horitu/horitu0918.html
 今回の被災者生活再建支援法の改正は,被災者の求めていたニーズに正面から応えたものと評価することができる。
 これまでの本末転倒な法律の構造を根本的に改め,「仕組み」としては,まさに平成10年ころから被災者が提案していた内容に沿ったものとなった。

 だから「質」の問題としては,十分に合格点だと思う。

 今回の改正法は,簡単に言うと,片山善博・鳥取県知事が,平成12年に実行した被災住宅再建支援制度を,そのまま引き写したようなものだ。
 片山さんの先見の明があらためて証明されたようなものである。
 (詳しくは神戸新聞の「震災を語る」をどうぞ→こちら

 しかし,問題点もある。

 新聞などでは,上限の金額が,民主党案の500万円に至らなかったことを強調している。
 「質」の問題がクリアーされたから,次は「量」の問題だということだろうか。
 もちろん金額は多いに越したことはない。
 しかし,その点については財政バランスもあるので,本筋の話ではないと思う。

 むしろ,半壊への適用が見送られたことの方が重大だ
 半壊であっても,生活再建のニーズは,質的には変わらない。
 鳥取県の支援制度では,半壊であっても,再建・補修をする場合には支援金を出した。
 なぜ半壊を除外しなければならないのか,というストレートな問に対して,誰もが納得できる答えを出すのは難しいだろう。

 平成23年に予定される次回の改正の場面での最大の目玉だ。

 そして,半壊にしか適用されないことにより,全壊と半壊の認定基準の重要性が,これまで以上に重くなった。
 現在の認定基準は,曖昧であるため,異議が提出されることが多い。
 認定業務にあたる職員の方々も,基準が曖昧だと,現場ではたいへん困る。
 では,微細なところまで細々と決めるのが良いかというと,混乱した被災現場にはそぐわない。

 明快で,現場で適用しやすく,かつ,公平性が担保されるバランスが難しいところだ。
 ここで,絶対に忘れてはならない大切なことは,実際の基準の策定を「被災者の目線」に立って行うことだろう。
 わが自殺大国日本には,
      自殺対策基本法
という法律がある。
 昨年10月から施行されている法律だ。
 しかし,この法律が,今の社会に活かされているとは誰も考えていないだろう。

 第1条の「法律の目的」は,次のように規定している。
第1条 この法律は、近年、我が国において自殺による死亡者数が高い水準で推移していることにかんがみ、自殺対策に関し、基本理念を定め、及び国、地方公共団体等の責務を明らかにするとともに、自殺対策の基本となる事項を定めること等により、自殺対策を総合的に推進して、自殺の防止を図り、あわせて自殺者の親族等に対する支援の充実を図り、もって国民が健康で生きがいを持って暮らすことのできる社会の実現に寄与することを目的とする。
 国や地方自治体が,「健康で生きがいを持って暮らす社会の実現」を図ることが自殺現象につながる,としている。
 なかなか立派な心がけだ。
 しかし,本当にそう思って諸政策を実施しているとは,とうてい思えない。

 第2条の「基本理念」には,次のような規定もある。
第二条 自殺対策は、自殺が個人的な問題としてのみとらえられるべきものではなく、その背景に様々な社会的な要因があることを踏まえ、社会的な取組として実施されなければならない。
 この理念が指摘する事柄に異論を唱える人は少ないだろう。
 しかし,そういう意識を持って社会活動を行っている人がどれだけいるだろうか。
 (少なくとも,私自身は,自分がちゃんとできているとは思わない。)

 私たちの国が,自殺大国から,幸せを共有できる国に成熟するまで,まだまだ長い道のりが必要だと思う。

 自殺のことを考えると,どうしても心が重たくなってしまう。
 しかし,笑いと涙でしっかりと基本が学べる本がある。
 今日は,それを紹介したい。
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 「幽霊人命救助隊」
 高野和明/著(文春文庫)


 「幽霊人命救助隊」の題名のとおり,半分はSF小説だが,その内容は徹底したリアリズムに基づいている。

 「家庭不和」 , 「孤独」 , 「学校いじめ」 , 「過労」 , 「男女の愛憎」 , 「中小企業の経営難」 , 「多重債務」 , 「うつ病」 
などなど,我が国の自殺の背景にある事柄を見事に網羅している。
 そして,それが社会の中でどのような位置づけにあるかも,具体的に浮き彫りにしている。

 さらに見事なのは,これらの課題に対する解決策というかマニュアルを説得的に提示しているところだ。
 たとえば,
   ◆うつ病が疑われる場合は医者に行くこと
   ◆ちょっとした人間関係に目を向けること
   ◆家族間の相互理解を深めること
   ◆自己肯定の気持ちを口にすること
   ◆経済的救済に関する正しい法律知識を持つこと
   ◆多重債務は弁護士に相談すること

   等々

 これらを,ときに笑える軽いタッチと,ときに泣ける感動シーンを織り交ぜながら書かれた良書であり,お薦めである。
 自殺対策基本法の条文の文字面だけをつらつらと眺めるよりも,ずっと役に立つと確信する。
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