上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
 1月28日のマクドナルドの残業代支払い訴訟の判決は,まさに,
ホワイトカラー・エグゼンプション制度の違法運用に対する判決
の先取りですね。
 社会に与える影響はとても大きいと思います。
bigmac.jpg
 ご存知の方も多いでしょうけれど,ホワイトカラー・エグゼンプション制度(=直訳すると「管理職」の「除外」制度 → 「残業代ゼロ法案」などとも呼ばれていました。)は,今のところ,棚上げになっています。

 ホワイトカラー・エグゼンプション制度というのは,厚生労働省の「労働政策審議会」(菅野和夫会長)が,平成19年2月2日に答申した「労働基準法の一部を改正する法律案要綱」のことです。
 振り返ってみると,棚上げになってから,まだ1年も経っていないのですね。

 この法律案によると(→正確にはこちら/厚生労働省のページをどうぞ),この要件に当てはまる労働者には,残業代は支払わないで良いということになるわけです(要綱より引用)。
対象労働者は,次のいずれにも該当する労働者とするものとすること

■労働時間では成果を適切に評価できない業務に従事する者

■業務上の重要な権限及び責任を相当程度伴う地位にある者

■業務遂行の手段及び時間配分の決定等に関し使用者が具体的な指示をしないこととする者

■年収が相当程度高い者
 簡単に言い換えると,

  1 業務の質が高く

  2 権限と責任があって

  3 時間にしばられず

  4 お給料も高い


という4つの要件があれば,「管理職」となり「残業ナシ」になるということです。

 今回のマクドナルド店長事件の判決は,

 1 マニュアル通りの業務に過ぎない

 2 重要な職務と権限を与えられていない

 3 労働時間の自由裁量がない

 4 賃金なども一般労働者と変わらない


という判断を下しています。
 まさにホワイトカラー・エグゼンプション制度の枠組みに沿って検討がなされたという感じです。

 この判決が出たことによって,心配なのは,
「だから,ホワイトカラー・エグゼンプション制度を,早く,きっちりと導入すべきだ!」
などという逆ギレ的な流れが加速しないかどうかということです。

 私としては,むしろ,この制度が導入さえもされていないのに,「もはや管理職制度の濫用があるではないか!」という問題意識を持つ方が健全ではないかと思います。

 この判決で,私たちが得るべき教訓は,ホワイトカラー(管理職のみなさん)の
   「エグゼンプション(=除外)」
よりも,むしろ,
   「プロテクション(=保護)」
ではないですかね。
スポンサーサイト
 エンタの神様をみてたら,「まえだまえだ」という小学生の兄弟コンビの漫才をやっていた。
 かわいらしいというか,ほほえましいというか,とにかく「こども」という武器をフルに生かしている。

 彼らは,前田航基くん(小学3年生)と前田旺志郎くん(小学1年生)の兄弟で,昨年のM-1グランプリ2007にも準決勝まで進出したらしい。
 松竹芸能の切り札なんだそうだ。
 (そういえば,吉本興業のりあるキッズはどうなった?)

 しかし,「まえだまえだ」が,うちの息子ら(小3&小1)と同級生なんだなあと思うと,あんのんと笑ってられない。
 ネタの意味もワケも分からないまま,入浴前のパンツ一丁姿で「そんなの関係ねぇ!」などと叫びながら踊っている彼ら(わがムスコら)と同じ歳の少年が,高度なネタを覚え,練習に勤しみ,大衆の面前で労働していると思うと,なんとも複雑な気分になってしまう。

 まあ,うちの子らに漫才させようとも思わないけど。
 絶対ウケないやろし。
 親としては,「顔が引きつる」ことがあっても,笑えないやろし。

 私にしても,同じ歳の人と同じように活躍しろと言われても,ようせえへん。
 ウィキペディアで1969年生まれを見ると(→こちらより),スポーツ選手(伊藤みどりとか,荻原兄弟とか,伊良部とか,曙とか)や,女性アイドル(渡辺美奈代とか,森高千里とか,浅香唯とか,千堂あきほとか)の多くは,既に活躍の絶頂期を過ぎて,一つの山を立派に成し遂げ,第2の人生に入っていると思われる方も多く,頭が下がるばかりだ。

 そういえば,今日,大阪府知事選がある。有力候補の橋下とおる氏も同じ歳である。

 私と同じ程度の絶対量(年数)の人生経験(同じ弁護士だが,ただ人生の「質」はかなり違うみたい。)で,あれだけたくさんの公約を本当に実現できるならば,実に立派なものだと素直に思う。
 ただ,公約の主柱に据えた「子どもの笑い」が,単なるネタで終わらないといいのだけれど。
 大阪府民が,「笑える」か「顔が引きつるか」は,フタを開けるまでのお楽しみ。
 帝銀事件(1948年1月26日)が起きてから,今日(2008年1月26日)でちょうど60年です。

 その当時,日本中を震撼させ,その後も刑事司法のあり方について大きな問題を投げかけた帝銀事件から,今,何を学んでいるかが今日のポイントです。


 数日前の朝日新聞によりますと,帝銀事件の故平沢貞通・元死刑囚の脳に狂犬病ワクチンの副作用で神経細胞が壊死(えし)した痕跡があることが確認され,虚言などの性格変化を起こす病変があったことが分かったということです。
(→2008年1月22日の記事より


 折しも,一昨日(1月24日),警察庁は,富山冤罪事件と鹿児島選挙冤罪事件の無罪判決を踏まえて,「取り調べ適正化指針」を打ち出しました(→参考記事はこちら)。

 その適正化の内容というのは、「取調室に監視窓を設けて、行き過ぎがないかどうか監視する」というのが大きな柱で、「長時間の取調べ」や、「暴言」,「身体的接触」などを禁止するなどというものです。
 しかし,そんなの当たり前じゃん! 何をいまさら……、という感じです。

 警察庁の検証報告書には、両冤罪事件とも,客観的な証拠を軽視したところに問題があると指摘をしています。
 客観的で科学的な捜査よりも,自白を重んじたのが問題だということです。
 ちゃんと問題が分かってるのに,なんで根本的な対策を講じないのか不思議です。

 帝銀事件についても,平沢氏の自白の信憑性が問題でした。
 しかし,この60年間のめざましい医学の進歩を経た結果,とうとう,平沢氏の虚言病変を科学的に説明できるようになりました。
 ここまで科学が進化したのに,なんでその成果を活かさないのか不思議です。


 さて,この60年の時間の経過の中で,捜査の科学化・客観化がどれだけ進歩したのでしょうか?
 60年前の事件について,自白内容さえも,科学的な分析ができるようになったのに,
 昨今の冤罪事件を見る限り,未だに自白偏重の悪弊がはびこっているわけです。

 しかし,これらのことから学んだ教訓は,
    取調室の監視,暴言,暴力はダメよ
という程度に過ぎないわけです。
 取り調べの全面的可視化さえも実現していません。

 あまりの低レベルさにため息が出る人も多いでしょう。
 しかし,それが今の刑事司法の現実でもあります。

 こうしてみると,
 市民であるわたしたちも「何が科学的な捜査なのか」ということをもう一度よく見直してみるべきなのでしょう。

 そして,
 警察庁もわざわざ取り調べの指針を立てるなら,「科学的な視点をどう生かすのか」という具体的な指摘をするべきなのでしょう。

 60年という長い時間を使ったのだから,それぐらいのことはできてよいはずです。
 世界同時株安が深刻化している。
 このまま放置すれば,世界経済の破綻も近い。

 直接的な原因は,アメリカのサブプライムローン問題であるとされている。
 しかし,もう少しマクロに言えば,アメリカという大国の経済的信用が地に落ちたということである。

 アメリカが経済的に破綻しているというのは周知の事実であった(アメリカには7兆ドル以上の国家借入金があり,世界最大の債務国だ。)。
 それでも,世界経済はひたすらアメリカを頼りにしてきた。
 ところが,いよいよ世界経済が,アメリカを見限ろうとしている,というだけのことである。

 たとえて言えば,危ういと知りながらも,ガキ大将に盲従してきた子分たちが,親分の小さな異変を目の当たりにして,正気に戻って,ふと立ち止まって考え込んでいるということだろう。

 かといって,直ちにアメリカを見限るわけにもいかないのが難しいところだ。
 アメリカ一国に依存してきた,世界全体のツケでもある。

 とにかく,アメリカさんご自身に,きちんと反省してもらって,「己を知る」自覚をなし,自ら進んで再生の努力をしていただくのが,一番の早道である。

 この点,次期大統領選に手を挙げている話題のバラク・オバマ氏の
    「合衆国再生/大いなる希望を抱いて」
という本が店頭に並んでいる。
obama.jpg(「再生」という言葉を見ると,すぐに「民事再生?」,「破綻手続?」,「債務処理?」と連想してしまうのは,マチ弁に特有の短絡的な発想癖か・・・。)

 この本を手にとって,内容をちらっと見てみたら,
   「第5章 再生のための政策」
という章では,「アメリカ経済の危機」「アメリカ経済と世界経済の動向」「いかにして財源をまかなうか」という問題提起をした上で,ラストは,
   「格差社会の是正」
というテーマで締め括っている。

 つまり,アメリカでも,自国の内部で,自己免疫不全状態を起こしていることを自覚し,これを是正するのが再生の第一歩だという見識があることが分かるのである。


 さらに,オバマ氏は,対外政策(軍事問題)の章(第8章)でも,
    「世界から信頼される国へ」
    「世界平和と平等こそが国益になる」

ということも言っている。
 (軍事政策はともかくとして)経済政策の場面で,本当にそのような姿勢が貫かれたならば,アメリカに対する信頼回復も進みやすいだろう。

 多重債務を抱える自己免疫不全のガキ大将のアメリカが,この機会に正気に戻って,物心ともに再生してくれることを望みたい。

(※私などは,アメリカが,これまでの軍事強行路線から,協調・対話平和路線に政策転換することによって,莫大な軍事費の一部を自国の経済の建て直し投資に回せるので,世界経済の正常化にリーダーシップを取ることもでき,そのことによって信頼を回復すればよいと思う。なので,むしろ,今こそ,世界平和のチャンスだと思うのであるが・・・・。)
 週間ダイヤモンドのクレーマー特集には
   「泣かされる学校/壊れる教師たち」
というコーナーにも頁を割いている。
kyouinkyusyokusya.jpg
 確かに,今や,学校はクレームのるつぼの様相を呈している。
 実に,実に,悲しいことだと思う。

 文部科学省の初等中等教育局が公表している,先生たちがうつ病などの精神性疾患により休職した人数の推移を,ためしにエクセルでグラフにしてみた。
 なんとまあ,ひどい惨状ではないか。

 その原因は,さまざまだろうが,
 本業の「教育」そのもので悩んでいるのではなく,クレーム対応で精神を消耗しているケースも多いはずであり,まことに残念でならない。

 学校がクレームのターゲットになってしまった原因について,小野田正利教授&週間ダイヤモンドの見解として,
◆中曽根政権下の臨教審が,学校の問題点を指摘して,学校・教師批判が巻き起こったこと

◆1995年に製造物責任法が施行されて消費者優位の風潮が確立したこと

◆バブル崩壊&構造改革の流れで,格差社会を招き,庶民の閉塞感が,権力への反発,そして公務員への批判につながったこと
などを挙げている。

 確かに,うなずける。

 ただ,もうちょっと,よ~く考えてみよう。
■学校の問題点を検討することもそれが改善につながれば結構なことであるし,

消費者主権(≒国民主権)の意識が高まることも,それ自体は結構なことである。

■それから,国民が,行き過ぎた構造改革や格差社会化にNOを突き付けるのも,それ自体,たいへん結構なことだろう。

 ならば,「たいへん結構なこと」が連なると,どうしておかしくなるのか?
 その矛先がどうして「教育」に向けられるのか?

 多くの人々が,「教育」を,「サービス業」だと勘違いしているからではないか。

 「教育」は,私たちの社会,私たちの未来,そして,私たち自身をかたち作る,とても大切な機会(場)である。
 憲法に照らして見てみれば,
   「教育」は,
     私たちの個人の尊厳を育み,
     私たちの立憲民主主義を支えるために,
絶対に欠かせない営みである。

 これ以上に「公(おおやけ)」の名がふさわしい業(わざ)があるだろうか。

 私は,この「教育」に携わっている「学校」や「教師」を大事にせず,民間サービスと同視してきたことが大きな過ちだったと思う。

 同じことは,「医療」にも言える。
 「病院」や「医師」を大事にしないで,サービス業のように位置付けたとき,しっぺ返しは私たちに来る。
 安全,公正,司法といった,ダイレクトに経済性のない分野もおんなじだろう。

 問題クレームの増大は,私たち自身の過ちが招いたガン細胞の増殖のようなものではないか。
daiyamono.jpg 今週号の週刊ダイヤモンドの特集は
    「恐怖のクレーマー」
である。

 私たちの仕事でも,クレーマー対策は身近な問題であり,また,クレームと権利実現の違いについて考えさせられ日々を送っている。
 なので,とても興味深い。

 とりわけ面白かったのは,悪質クレーム処理の専門家の援川聡さんが書かれている
   プロの苦情屋を5分で黙らせる
   「ギブアップトーク」の極意

という記事だ。


 世間が思い込んでいるような「特殊クレーマーには謝ってはいけない」というのは誤りで,むしろ「お詫びの理論武装」をして,まずは謝ることが大事だということだ。

◇ たとえば,わざと大声を出して怖がらせようとするクレーマーには,まず謝った上で「お客様,そんなに大声を出されると怖くて言葉を失い,頭の中が真っ白で答えが見つかりません」と率直に言えというのだ。そうすると,逆に相手方はあわてて不安になってしまう。

◇ それから,「慰謝料をよこせ」というお客さんには,「そのような難しいケースは私には初めてでどうしたらよいか分かりません。しかるべきものと協議しますので,お名前と御連絡先を…」とやる。

 いわば「糠に釘の糠になる」というテクニックだというのである。


 私は,これはたいへん正しい対応であり,テクニックというよりも,むしろ正攻法だと思う。

 「謝ることは謝る」

 「分からないことは分からないと言って詫びる。」

 「自分で判断できないことは,率直に言って持ち帰る。」

 「できないことは,きっぱりできませんと言って謝る。」


 だいたい,現場で事態をこじらせてしまうのは,担当者の個人的な判断で,できないことを頑張ってしまったり,謝るべきところを突っ張ったり,上部に上げるべきところを現場で済まそうとムリをするからだ。

 本来の自然の流れのとおりに進めれば,「無理なクレーム」に対しては,おのずと「ギブアップトーク」に落ち着くのが道理である。

 無理は嘘に結びつきやすく,スピード解決は拙速に陥りやすい。

 謝るべきかどうかなどという不毛な議論をするのは非生産的だ。

 その場のトークは「ギブアップ」して(←良い意味で),むしろ,原理原則に従ってじっくり解決を図るのがいいと思う。
20080120090504.jpg 神戸新聞社では,1月17日には,社員食堂のお昼のメニューは全て消える。

 そして,にぎりめし2個と,魚の缶詰,味噌汁のセットを無償で給付するのだそうだ。

 阪神淡路大震災のあった1月17日という日を忘れないようにするためらしい(神戸新聞1月19日の論説サロンより)。




 うちの事務所でも,今年,スタッフからお花を飾ったらどうかという提案があった。

 ささやかながら,近所の花屋さんからフラワーアレンジメントを届けてもらった。

 さりげなく,「忘れないための工夫」をしている。




 過去の出来事を忘れないでいる,ということは簡単そうで,意外と難しい。

 良いことも,悲しいことも,放っておくと風化する

 だから,たいせつなことは忘れないためにちょっとした工夫が必要だ。

 形にしたり,何かの行動にしたり,名前をつけたり・・・・

 その工夫の積み重ねがやがて文化になる。
 そして,人の心を豊かにしてくれるのかな,・・・と思った。

 世間では,「弁護士」と「選挙」というと,目下のところ,橋下さんが出馬している大阪府知事選を連想するのでしょう。
 確かに「弁護士」と「選挙」でググッて見ると,府知事選の記事がたくさんヒットします。

 ただ,弁護士業界内では,橋下弁護士のこと等はさほどの話題ではありません。
 当業界で「選挙」といえば,目下のところ,日弁連会長の選挙です(Googleの冒頭でも「弁護士と派閥・選挙」という久保内弁護士さんのHPがヒットします)。

 日弁連会長は2年任期なので,2年に一度の定例行事でもあります。
 今年は,過去になく議論がヒートアップしています。
 選挙構図としては,これまでの日弁連の流れを承継する本命候補(大阪の宮崎弁護士)と,これを厳しく批判する対立候補(東京の高山弁護士)の一騎打ちという形です。
 この対立構図は,過去数回にわたる選挙戦と変わりません。

 しかし,今年は,弁護士人口問題(年間3000人増員の当否)をめぐって,多くの弁護士が強い関心をもって政策論争に目を向けているのです。
 この論点自体は,実は,前回も,前々回も,その前の回も同じなのですが,いよいよ弁護士大増員が現実のものとなって(今期の登録者が約2500人),強い危機感が生じていることによります。
 大阪弁護士会でも会長選挙があり,3人の候補が出ているそうですが,全員ともに3000名見直しを公約に掲げているそうです(→増田弁護士のHPを

 ただ,多くの弁護士が寄せる関心もサロン談義の域を出ません。
 この選挙を通じて問題意識と議論の深化が進んで,多くの弁護士が主体的に関わろうとする意識を持たないと,誰がトップに立っても舵取りは難しいことでしょう。

 なお,弁護士会内の選挙の戦い方は,田舎の村選挙とあんまり変わりません(弁護士会の中の派閥や選挙のことについて,ヤジ馬的な興味をお持ちであれば,先にご紹介したページをご覧いただいたら面白いかも知れません。)
sensoukeizai.jpg 極めてストレートなタイトルの本である。

 文字どおり「戦争」を「経済学」で切った内容だ。

 ただひたすらミクロ・マクロ経済学的な見地から,淡々と客観的分析を試みる。

 何か高邁な理念を語るわけでも,政治思想を分析するわけでも,社会学的なアプローチをするわけでもない。
 したがって,自己の考えを説得しようとするものでもない。

 ただ,ここで語られているテーマや結論は,たいへん明快である。
「戦争が経済にとって利益になるのか?利益にならないとしたら,なぜなのか?」

「戦争は経済を活性化するという鉄則は,かつては有効であったが,いまは当てはまらない」

「合理的な観点からすると先進国同士の戦争は考えられない」
(序文より)


 私が,とても分かりやすく示唆に富むと思ったのは,「第7章 テロリズム」におけるテロの経済的合理性の箇所である。

 911の自爆テロのような一見不合理な行動を取るのは,貧困等が一因になっているのではないかという疑問に対して,
「比較的裕福だが抑圧の厳しいサウジアラビアのような国は,貧乏だが市民権を守る伝統のある国よりもテロリストの温床になりやすい」
という実証分析をまず示している(314頁)。
 そして,よく知られている経済学のゲーム理論を用いて,「現状を変えたい」と思っている人々の行動をモデル化してみると,コストの優劣からすると,本来であれば,
 現状 < ハイジャック < 爆弾 < ロビー活動 < 抗議活動
となるはずであるが,市民権の合法的行使が認められてないと,このモデルが使えなくなり,コストの低い爆弾に流れやすくなるというのである。
 かなり単純化された分析であるが,著書に示されている
「このモデルを見ると市民権の欠如が個人の選択肢をテロに向けやすくなることは分かる」
という結論は,「なるほど」と納得できる(318頁)

 私たちの国が,世界一安全な国だと言われていたのも,それだけ市民権がしっかり確保されていたからだ,というようにも言えるかも知れない。
 最近の規制重視・抑圧・監視に傾いた方向性は,経済的視点から見てみると,要注意かも知れない。



 こうした示唆的な分析がてんこ盛りである。
 もっとも,ヒジョーに分厚い本であるし,経済学の数式や統計の図や表があふれていて素人にはちょっと難しいから,全てを読破するには骨が折れるかも知れない。
 しかし,教科書として書かれている本であるし,挿入されているコラムだけでも面白いから,買って損はないだろう。



 本の紹介としては,表紙カバーの紹介文が最も上手だろう。以下引用する。
 戦争はペイするものなのか?
 戦争は経済に貢献するか?

 憲法9条改正? 自衛隊を軍隊に? でもその前に一度、冷静になって考えてみよう。戦争は経済的にみてペイするものなのか? ミクロ・マクロの初歩的な経済理論を使って、巨大な公共投資である戦争──第一次世界大戦から、ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争まで──のバランスシートを丸裸にする。

 「戦争が経済を活性化する」は本当か?
徴兵制と志願兵制ではどちらがコストパフォーマンスが高い?
軍需産業にとって実際の戦争にメリットはあるか?
核物質闇取引の実際の価格は?
自爆テロはコストにみあっているか?
……などなど、戦争についての見方がガラリと変わる、戦争という一大プロジェクトを題材にした、まったく新しいタイプの経済の教科書。図版多数。

訳者・山形浩生による付録「自衛隊イラク派遣の収支分析」も必読。
1月17日に,

名古屋の友人(征吾パパ)から電話をもらった。

名古屋の弁護士さんからも教えてもらった。

中日新聞に,私の記事が出ているという。


ただ,残念ながら,関西では中日新聞を買って読む術がない。
 阪神淡路大震災から13回目の1月17日を迎えるにあたり,何を書こうかなと思案していました。
 やっぱりこの数年の間,つらつら考えてきた「復興基本法と憲法」のことについて,触れておこうと決めました。

 昨年,私が初めて書いた本,「災害復興とそのミッション」の中から,一節を引用して,震災の日を迎えて言っておきたいことに代えたいと思います。
(「災害復興とそのミッションp74~76より)
 「人間」,「くらし」,「地域で暮らす価値」,「災害弱者への救済と支援」「被災地自治・被災者自治」などの法的要素がバランスよく盛り込まれた法制度が欲しいのです。
 その名称を「復興基本法」とよぶかどうかはともかくとして,復興の道標(みちしるべ)となる法制度が今必要とされていることは間違いありません。
 これらメニューをすべて取り揃えた法律が,すでに我が国には存在しているのです。
 それが,憲法です。

 ちょっと頭を柔らかくしてみましょう。
 まず大きな前提として,憲法を制定した当時の日本の状況に思いを馳せてみます。
 1945年8月15日,日本は太平洋戦争に敗戦しました。戦後日本の国土は,焦土と化していました。阪神・淡路大震災の後,瓦礫と化した神戸の地を見て「まるで戦争の後のようだ」と呟いた人は少なくありませんでした。
 大地震によって壊滅した後の都市の様子は,さながら戦後の我が国の姿そのものだったわけです。
 また,あまり知られていませんけれども,戦争前後には数々の大規模な自然災害が日本を襲っていました。
    1940年7月12日の三宅島噴火
     (死者不明者46人)
    1941年7月15日の長野北部地震
     (死傷者23人)
    1941年11月28日の豊橋竜巻
     (死傷者53人)
    1942年8月27日の台風16号
     (死者不明者1158人)
    1943年9月10日の鳥取地震
     (死者1083人)
    1943年9月20日の台風26号
     (死傷者1461人)
    1944年12月7日の東南海地震
     (死者不明者1223人)
 戦時中は山林の濫伐を行うなどして国土が荒廃してしたこともあって,ひとたび地震や台風が襲うと,被害が甚大なものとなってしまっていたそうです。

 先達は,戦争と自然災害のダブルパンチによって壊滅した焦土を前にして心に誓いました。なんとしてもこの国を復興させ,誰もが安心して暮らせる国にしようと。この決意は,まさに被災地を前に決意した現代の私たちの心情に通ずるものでした。きっと,こういう気持ちは人間の本能なのでしょう。

 そして,同時期に,日本国民は,新しい憲法をつくろうとしていました。
 日本全土の復興が端緒に着いたばかりの1945年11月頃,つまり戦争から3か月しか経っていない時期から,民間グループ,個人,政党,政府などが次々に新憲法の草案を作成して発表していました。現在の日本国憲法の叩き台になったとされる鈴木安蔵氏らで作る憲法研究会の「憲法草案要綱」も1945年12月26日に発表されています。これら官・政・民入り交じった活発な憲法論議を経て,1946年11月3日,新しい日本国憲法が公布されました。

 このような時代系譜を並べてみると,この新しい憲法を作るに当たって,当時の先達らが,何とかして日本を復興させようという強い意欲に駆られていたに相違なく,その思いを憲法に込めていたのではないかと強く推測されるのです。
 明日は平成7年1月17日から丸13年目であり,被災地に生きる私たちにとって特別な日です。
 当地の新聞は,この1週間ほど前から,震災特集記事で一杯です。
 こういった記事に触れると,あらためて考えさせられることが非常に多いです。

 しかし,実は,私は13年前の地震の揺れを体験していません。
 私は被災者ではないのです。

 ただ,そのことが私の弁護士活動の原点になっていると思っています。
 それは,「体験していない」人が,「体験した人」の身になって考える(=何事も他人事と思わない)ということです。
 そもそも他人なのですから,他人事として,客観的に捉えることは容易です。
 だからこそ,弁護士には,感情移入とかいうのとは違う意味で,「我が事」として捉える視点がたいせつではないかと考えています。

kobekaiho.jpg
 そのきっかけともいうべき,
   震災非体験者の体験記
   (平成9年神戸弁護士会会報震災特集号に掲載)

を転載します。
1 その時
 その時,私は,司注研修所の寮の最上階の7階の部屋で,二回試験を目前に控え勉強をしていた。震源から遠い埼王県和光市では何も感じなかった。
 2~3分後,同期の友人から連絡があった。「つくちやん,さっき関西の方でえらい大きな地震があったらしいで。」「珍しいな。どの辺かな。」「ラジオでは神戸が震源やって言うてるよ。」驚いてラジオのスイッチをオンにした。
 「1月17日未明,淡路島北部を震源とする大地震が発生しました。神戸市東須磨のマンンョンが倒壊したという情報が入っています。新しい情報が入り次第続報いたします。」ラジオは同文句のアナウンスを延々と繰り返すばかりだった。「私は,須暦区の実家と尼崎市の婚約者に電話を入れた。電話器の向う側で,興奮している有様が手に取るように分かる。幸いにして,家族らは全員無事で,家も潰れていないとのことだったので簡略に用心を伝えて電話器を置いた。
 寮の修習生はほとんど寝ている。この事態を何も知らないはずてある。私は神戸,大阪に住まいのある寮生に片っ端から連絡を入れた。
 続いて阪神間に住む知人,友人等の安否が心配になり,次々 に電話を架けた,しかし,もう混線してしまってつながらない。
 午前7時を回りテレビニュースが始まった。ブラウン管を通して初めて被災状況を目にした。映し出される画像は阪紳高速道路の倒壊の様子,伊丹駅の倒壊の様子,各所の家々の倒壊の様子等々だった。
ラジオの報道からは想像もつかなかった惨状である。住み潰れた神戸の街が変わり果てたのを見て一時呆然となったが,すぐに途方に暮れた当地の人々の顔が思い浮かんだ。私は,「一人の神戸人として駆けつけ,何かしなければならない。」という思いに駆られたが,同時に,何もでさない自分の無力さを思い知った。仕方なく,ただただ画面に食い人るばかりだった。
heisei.jpg 平成20年を迎えた。

 平成11年までは,本日(1月15日)が成人の日だったので,やはりなんとなく今日の日が成人式のような感覚が,どうしても抜けない。

 「平成くん」も,今年で20年目で,成人となる。

 この「ボクらの平成20年史」(晋遊舎発行)という本も,腰巻きの帯には「新成人への贈り物に!」などと書いてあって,20年目の節目をストレートに感じさせる。

 さて,私のブログの一つの柱は,憲法をたいせつにしよう,というテーマである。
 大衆や芸能・スポーツ等の20年については,この本に任せて(この本,なかなか楽しい内容ですよ。),私は,憲法を切り口にして「平成くん」の成長を,ほんの少し振り返ってみたい。

obuti.jpg 平成元年 即位したばかりの天皇は「皆さんとともに日本国憲法を守り,これに従って責務を果たすことを誓う」と宣言した。
 憲法99条の憲法遵守義務をあらためて確認した好調な滑り出しであった。

 ところが・・・・

 平成2年 学習指導要領で日の丸・君が代が義務化され,憲法19条がらみで波紋が広がり,今や教育現場で猛威を振るっている。

 平成3年 湾岸戦争勃発。PKO法案をめぐって9条にメスが入り,これまた,今や,海外派遣恒常化へと傷口が広がりつつある。

 平成4年 就職氷河期突入。やがてワーキングプアー増大につながり,憲法25条の危機につながっている。

 平成5年 自民単独政権から細川内閣に政権交代。しかし,かえって自民の連立政権の呼び水になってしまう。

 平成6年 永野法務大臣が「南京大虐殺はでっちあげ」と憲法前文の精神に反する発言で辞任。しかし,歴史修正論議は未だに延々と続く。

 平成7年 阪神淡路大震災&地下鉄サリン事件。悲しみの中で命と人権(憲法13条)を考える大きな契機に・・・・

・・・・なんだかため息が出てきそうですね。
 せっかく天皇が自ら進んで良いスタートを切ってくれたのに,どうしてこうなるのか・・・?

 ともあれ,これが「平成くん」が小学校に入るまでの幼少期です。
 三つ子の魂,百まで,と言いますが,「平成くん」は,幼少期のトラウマを引きずって,いま成人式を迎えようとしていることが,あらためてよく分かりました。

 疲れたので,今日はこれまで!
 平成20年1月14日に,日本災害復興学会で開催された復興デザイン研究会で,台湾から来られた謝志誠さん(“九二一震災重建(再建)基金会”)の講演があった。

20080113103753.jpg なお,もう忘れてしまっている人も多かろうが,「九二一」というのは1999年9月21日に起こった台湾集集地震のことである。


 この“九二一震災重建再建基金会”は,住宅復興に及び腰である日本よりも,かなり直接的に個人の住宅の再建支援や,集落移転支援などに利用されている。
 謝さんの言葉によれば「家は人類昔からの望み」とのことで,この住宅再建の思想が基金会のコンセプトでもあるそうだ。
 謝さんからは,
    「被災者の需要が第一」
という言葉が出てきた。
 これこそ片山善博さんが提唱する「災害復興のミッション」と全く同じ意味である。
 ところや国が変われども,本質を知る人の考えは,いつも一緒だ。


 台湾の復興の最前線で活動していた謝さんは,平時にこそ復興の問題を考えるべきだという。
 簡単ではあるが,謝さんが掲げた今後の復興のテーマ(台湾語で「策略」というらしい。)をまとめておく。
 <策略>
   策略1 しっかり再建に備える
   策略2 専門知識を大衆化する
   策略3 相互の責任を約束する
   策略4 選択に順番をつける
   策略5 臨門(最終的な合意形成)の仕組みを微調整する
   策略6 社会的弱者に向き合い,先に再建・建築をしてから,賃貸や売却を考える
 この中で,「専門知識を大衆化する」という課題については,私たち法律実務家に,常に突き付けられた命題と同じである。
 弁護士の場合,ワケが分からなくて難解な法律を,市民の方々に分かりやすく説明・提供するのが,その社会的責務だからだ。


 ところで,台湾では,先般の921地震に際して,たいへん積極的な法政策が取られたらしい。
 この点は,基本的に政策自体が乏しかった日本とは違う。

 台湾では,
   ①抜本的な特別法を制定し,諸手続きを円滑化,迅速化した,
   ②多様な選択肢を呈示した
   ③潤沢な予算根拠を設けた,

などという施策が行われたということである。

 これは,大いに学ぶべきだ。


 しかし,台湾でも,やはり共通する課題を抱えているらしい。

 ① 良質な政策が提供されたものの,

        ↓しかし,

 ② 行政が予算の消化に極めて保守的で,

        ↓さらに,

 ③ 政策の実行力・積極性に欠けていた,

ということで,せっかくの良質の政策が十分実施されず,予算を消化し切れなかったということだそうだ。


 日本でも,良質な政策や,良質な法律が制定されているのにもかかわらず,そのとおりに実施されていない状態が散見される。

 たとえば,昨日のシンポで,泉田裕彦新潟県知事は,新潟県中越地震で,災害復興対策について,被災地の実情を訴えて,相応の予算の確保に政治的に成功したにもかかわらず,行政(とりわけ財務行政)のレベルで,その執行に著しい絞りが掛けられ,せっかく得られた予算を,使うことができず,「剰余金」として国に返還を余儀なくされたという例が語られた。

 良い政策が明示されているのに,それを実施しない!
 その最たるものが,「日本国憲法」であろう。

  ◆良い政策          (=いわば頭)

  ◆これを支える予算と民意 (=いわば物・心)

  ◆これを実行する積極性  (=いわば手足)


は,何事にも通じる必須の三要素ではなかろうか。

 災害復興学会の立ち上げのひとつの目玉は,情報の総合化というところにある。

(※学会代表に就任した室崎益輝先生は,学会の課題として3つの「総合化」というのを挙げている。
 3つというのは,
  「1 復興課題の総合化」
  「2 仕組みや制度の総合化」
  「3 予防と復興の総合化」
である。→詳しくはこちらのPDFをどうぞ
 そして,そのベースとなるところに「情報の総合化」があることは言うまでもない。)


 災害復興に関する情報は,
     とても地味なので,情報を探すこと自体が難しい。
 さらに,
     復興問題は,基本的にローカル扱いなので,情報があちこちに点在している
という特徴がある。

sankeifukkou.jpg  そこで・・・・,
 さながら,ウェキペディアのように,災害復興情報を総合的に集約しようということである。

 こういった取り組み自体が地味なことなので,もちろんニュース価値は低い,
…のではないかなと思っていた。

 ところが,ところが!

 こういうマニアックなところに目を付けるのが産経新聞
 さすがだ!
 13日の朝刊1面トップ記事に,このことを取り上げているのである。
 (→記事内容は,末尾に引用)


 しかし,これだけ難題であるデジタル情報の集約・総合化というのは,なかなか容易にできるものではないだろう。

 この事業を主として担うのは,都市生活コミュニティーセンターの事務局長をされている池田啓一さんだ。
(池田啓一さんのことは,こちらをどうぞ

 既に,都市生活コミュニティーセンターの「災害救援情報」のコーナーは,災害救援ボランティアの立場からすると,欠かすことのできない災害総合情報バンクとしての機能があると思うが,さらなる役割が加わるわけで,池田さんの役割の大きさは本当にたいへんだと思う (ごくろうさまです。)

 実にたいへんそうだけれども,これを支え,充実化させていくためにも,多くの方々にこの日本災害復興学会に入会していただきたいと思う。
 なぜなら,災害の問題は,被災地だけの問題ではなく,災害列島に暮らす日本の国民全てに共通する「わがこと」の問題だからだ。
20080113134405.jpg 日本災害復興学会の設立にあたり,筑波大学・特任教授の熊谷良雄先生から,学術記念講演ということで,
   「我が国の災害復興の経緯と課題」
という題目のお話があった。

 たいへん面白い切り口で,興味深いお話だった。

 講演内容の概要は以下のとおりである。
 1 江戸の大火とその復興

 2 明治期以降の東京での災害復興

 3 さまざまな災害復興

 4 我が国の災害復興を考える

 この中で,江戸大火とロンドン大火の比較の視点は,私にとって非常に新鮮だった。

 江戸時代には,江戸のまち全体を焼き尽くすような大火災が,なんと89回も発生していたらしい。
 江戸の町では,庶民が新築した家屋は,わずか平均7年で焼失してしまう有様だったそうだ。
 火事がいかに身近な災害だったかが分かる。

 この点について,ほぼ同時期に起きた明暦の大火と,ロンドン火災の復興施策が違うというのである。

 江戸の町では,大火が起こるたびに次のような施策を実施していたそうだ。
   ◆武家屋敷を安全な地域に移設する
   ◆街路の拡幅や,避難路確保,町家の庇の取り払いを行う
   ◆貴重品を格納して,身一つで逃げられるように穴蔵を奨励
   ◆旗本による「定火消し」や町方の「火消組」など消火組織の設置

 これに対し,ロンドンでは1つの大火災で次のような施策を実施した。
   ◇建物の不燃化を一層推し進める
   ◇火災審判所を設置して権利紛争を迅速に処理する
   ◇監視人を設置して違反建築を取り締まった
   ◇復興財源確保のために課税と,固定資産税の減免を行う

 要するに,
   ロンドンでは
     ◇個々の家の安全を守ることからスタートし,
     ◇個別性を大切にしながら,行き過ぎを諫め,
     ◇災害後の対処について,エネルギーと金を注いだ

という特長があるのに対して,
   江戸では
     ◆役人と町全体をいかに守るかに汲々とし,
     ◆町人には,自己防衛(自己責任)を奨励し,
     ◆防衛組織の立ち上げに傾いている,

という点が際立っているというのである。

 つまり,
   これが,わが国の(まずい意味での)復興政策の原点になっている
ということである。

 確かに,今,私たち日本人が考える復興政策というと,

◆公的施設の防災にお金とエネルギーを注ぎ,

◆被災者には「原則として自己責任」と言い聞かせ,

◆「安全」といえば,すぐに都市計画,区画整理に一辺倒となり,

◆自衛隊やら,地域防災会議やら,種々の防災組織の立上げで満足する,


という傾向がある。

 これに対し,「個々人の生活」や,「被災者個人への支援」や,「民間住宅の耐震化」などについての関心は極めて薄い。

 この発想は,実は江戸時代から綿々と受け継がれてきた日本的なものだということである。

 もちろん,木造住宅を基本とする「日本らしさ」や「日本の知恵」というものが,そのベースにあるのだろう。

 しかし,西洋的な都市計画がベースになっている今日,災害復興についても,他国に学ぶべきことは多いのではなかろうか。

本日「日本災害復興学会」が設立された。

fukkougakkai.jpg


 この学会には,災害復興に関する大家と言われる方々が大集合している。

 会長には,室崎益輝先生が就任した
 (室崎先生のことは,こことこことここをどうぞ)

 副会長には,被災地NGO恊働センター代表の村井雅清さん(村井さんのことは,こことここをどうぞ)と,首都大学東京の中林一樹先生(中林先生のことは,こことここをどうぞ)と,が就任した。

 特別顧問には,被災地の首長として,貝原俊民さん(元兵庫県知事),片山善博さん(元鳥取県知事/もう何度もこのブログで取り上げましたが,こちらをどうぞ。),山中漠さん(北海道壮瞥町長)が就任した。

 そのほか,理事となっている方々の面々を見ると,本当に「災害復興オールスター」といった感じである。
 私たち法律実務家の代表として,日弁連・災害復興支援委員会の委員長であり,この分野の私の師でもある永井幸寿弁護士も,理事の一人に名を連ねている(永井先生のことは,こことここをどうぞ)。
 
 地域的にも,「日本災害復興学会」と名に冠したとおり,
 阪神・淡路大震災の地域関係者のみならず,
 新潟中越地震関係の方々(先行して活動している「復興デザイン研究会」のみなさん),
 雲仙普賢岳噴火災害関係の方々
 大災害が予想される首都関係のみなさん
など,全国の方々が,この西宮の地に集まった。

 この学会は,いわば「災害復興の人材バンク」というべき存在だ。

 学会には,
  ■大会・企画委員会
  ■広報・デジタル委員会
  ■学術誌編集委員会

の3つの委員会と,
  □復興デザイン研究会
  □復興法制度研究会
  □復興学会プレス会議

という3つの研究会が置かれた。

 私は学会自体の役ではないが,復興法制度研究会の末席に加えていただき,今後は,災害復興法制度についての研究に参加させていただくことになった。
 今日は,発足記念大会の第1弾であり,明日,引き続き第2弾のシンポジウムが予定されている。

 以下は紹介記事であり,今日の記念として引用しておく。
 ダイエットは続けている。
 正月で一旦は68kg台まで戻ってしまったが(スタートは77kg),一進一退を繰り返しながら,67kg台で推移している。

 手法としては,別に特別なことをしているわけではなく,自慢や披露できるようなこともない。
 とりあえず心がけていることを挙げると,
   ◇食べる量を減らす
   ◇よくかんで食べる
   ◇よく歩き,車を控える
   ◇ビリーほかの運動をする

といったところだろうか。

20080109230833.jpg そういった手法よりも,むしろ大切なのは,「達成感」「過度に我慢しない」ということだと思う。
 やっぱり,何事も気持ちが大切である。

 法律っぽくおおげさに表現するならば,
   「権利の実現」 と 「過度の規制をしない」
という感じか。
(うーん,あまりに大げさ過ぎるか・・・)

 だから,“健康のために”と病院から強いられたダイエットだったら,きっと私の場合は長続きしないだろう。

 したがって,たまに小休止もする(…ここまでの能書きは,実は単なる言い訳でした。てへへ。)

 やはりラーメンはやめられない。
 家でも,インスタントの袋麺を喰っているし,今週も,三宮の駅前の「源屋」でちょっと一杯,喰ってしまった。 

 さて,この源屋は,できて数ヶ月の立ち食いの博多ラーメン屋だが,阪急三宮駅北側の立ち食いの「山笠ラーメン」と同じように,本場の博多ラーメンに忠実な味である。
 山笠ラーメンに比べると,味は濃厚だが,本場の細麺なので,ツルッと胃袋に収まる。

 東京の“なんでんかんでん”みたいに,海苔に字を書いているのも関西では珍しい。

 ごちそうさまでございました。
 さて,この小休止を取り戻すために,何分歩いたらいいだろうか・・・・。
 第81回(2007年度)のキネマ旬報ベスト・テンで,見事,
   それでもボクはやってない
が第1位となりました。

 (→詳しくはこちら「シネマトゥデイ」をどうぞ

 おめでとうございます。

 以前にも書きましたが,この映画は,「冤罪」を取り上げた作品ということですが,実際に刑事事件をやっている弁護士の目から見ると,
   「実際によくある出来事」
を取り上げたに過ぎません。

 巷によくある法廷ものと何が違うかというと,「極めてリアル」というところぐらいです。

 刑事弁護の第一人者の一人である高野隆先生は,思わず周防監督に対して「身も蓋もない映画だなあ。」と口走ってしまったとのことですが(→高野先生のブログをどうぞ),私も同感です。

 ただ,こうしてみると,いかにわれわれ法曹関係者(裁判官,検察官を大いに含む!)が,世間ズレしているかが分かります。
 法曹が当たり前と感じている日常の事態が,世間の目に晒すと,キネマ旬報ベスト1級のドラマになるのだということなのですから。

 この傾向は,世界の目から見ても同様のようです。
 昨年12月15日に,日弁連で,
    映画「それでもボクはやってない」を観て語る
    ~世界も驚く「DAIYO-KANGOKU」~

というシンポをやっていました。

 もう終わっちゃったシンポですが,案内文を引用します(→詳しくはこちら
 (強調・下線は津久井による)
2007年5月18日付で発表された国連拷問禁止委員会の勧告では、日本の代用監獄」について、「無罪推定の原則、黙秘権及び防御権を尊重しないこととなり得るものである」との強い懸念が示され、日本政府に対して直ちに制度を見直し、警察において拘禁できる最長期間を国際的な最低基準に適合するよう、制限することが求められました。

このたび、日弁連では、国連拷問禁止委員会の前夜にもジュネーブで上映され、現地関係者から高い評価を受けた「それでもボクはやってない」(脚本・監督周防正行)の上映会(英語字幕付)と「代用監獄」の弊害、警察拘禁の問題に関して、国際的な観点から自由に論じるシンポジウムを開催し、これからの日本の刑事システムがどうあるべきかについて考えます。是非、ご参加ください。
 しかし,こうしてみると,私たちの感覚は,世間からも世界からもズレてしまっているのですね・・・・

 法曹関係者,とりわけ勾留担当に当たっている若手の裁判官には,この映画を是非,観ていただきたいものです。
 これほどまでに話題になった上,キネマ旬報第1位という信頼ある評価も得たのだから,世間の常識を知っておく上でも極めて有益であろうし,「知らない」というのでは世間知らずと思われるだろうし,これから裁判員制度に関わる法曹人としては必須だと思うのですが・・・。
 「それでもボクは観ていない」では,困ります。
 (・・・・オチはイマイチか)
 ホームレスが売る雑誌「ザ・ビッグイシュー」が売れている。
 2003年に発刊されて5年経ち,黒字化しつつあるということだ。
 (→北海道新聞の記事「ビッグイシュー『内容が好評』 値上げで黒字化 ホームレス支援雑誌」はこちら

 ビッグイシューの自立支援の仕組みは,以下のとおりだ。
 (ビッグイシュー日本版のHPより引用)
bigissue2.jpg

 (詳しくは,こちらへ

 HPを見て知ったのだが,昨年9月に,「ビッグイシュー基金」が設立されて,12月26日には基金発足記念パーティーも催されたとのこと。(→こちらへ
 ホームレスの自立支援の活動は,民間の活力が源となって,どんどん広がりつつある。

 「貧困」という社会問題に,市民自身が正面から取り組んでいる動き(すなわち民主主義)のあらわれだ。

 弁護士らも,近畿生活保護支援法律家ネットワークなどを通じて,動き出している。
 これも,あくまで民間支援の活動だ。
 (私も,すでにこのネットワークを通じて2件の相談を受けた。)
seihonet.jpg


 以前にも紹介したけれども,平成14年8月に成立した
    ホームレスの自立の支援等に関する特別措置法
というのがある。
 第1条では,「この法律は…ホームレスの自立の支援…に関し、国等の果たすべき責務を明らかにするとともに、ホームレスの人権に配慮し、かつ、地域社会の理解と協力を得つつ、必要な施策を講ずることにより、ホームレスに関する問題の解決に資することを目的とする。」

 などと書かれ,

 第5条,6条では,「国は…総合的な施策を策定し、及びこれを実施する」,「地方公共団体は…当該地方公共団体におけるホームレスに関する問題の実情に応じた施策を策定し、及びこれを実施する」

 などと書かれ

 第7条では,「国民は、ホームレスに関する問題について理解を深めるとともに、地域社会において、国及び地方公共団体が実施する施策に協力すること等により、ホームレスの自立の支援等に努める」

 などとされている。

 つまり,この法律の基本的な仕組みは,
   国や地方公共団体が率先して施策を実施し,国民はこれに協力する
というシステムになっているということだ。

 すでに法律ができて5年以上が経過した。
 しかし,この法律のとおり,自立支援の政策が実施され国民がこれに協力するというような,この法律が予定しているシステムが機能しているのかどうか,私は知らない。
 単に私が寡聞または不勉強なのかも知れない。
 ただ,福田首相就任後の国会議事録を検索してみたが,この法律の施策について正面から議論をした形跡は全くなかった。
 少なくともヤル気がないことは明らかだろう。

 やっぱり,本当に「生存権」の権利実現を図っていこうとするならば,行政の政策を期待したりするだけではダメだ。
 たとえ法律が整備されても,受け身でいる限り何も変わらない,ということだ。

 この「ビッグイシュー」は,市民が自ら動く,というところから社会変革が進んでいくということを象徴する存在だ。
 すなわち直接的な民主主義的活動の実践である。


 そういう意味で,自分たちにカツを入れ,頑張ろうという気持ちにさせてくれる。
 街角で「ビッグイシュー」の販売員を見つけたら,是非買って,元気をもらおうと思う。
 今日から事務所の仕事始めです。

 たくさんの方から年賀状をいただきました。ありがとうございました。

 旧友などから「ブログ見てるよ」などとのコメントをいくつかもらいました。
 生きて動いて喋る私を知っている旧友たちは,生来のおちゃらけな性格を知っているので,硬派を装っている(?)ブログ記事と,私の実体とのギャップを見透かされたような気がして恥ずかしい限りです。

 橋下弁護士に引っ掛けて「お前も知事選でないの?」というおふざけコメントもありました。
 絶対,300万パーセント,あり得ません!(笑)

 業務関係の方から「早く正業にお戻り下さい」との厳しいご指摘も…。
 おそらく昨年に任期を終えた弁護士会の役員のことを言っておられるのでしょうけれど,ブログのことを言っているのかも知れない,とドキッとしました。
 今年は(今年も!)本来の弁護士業に支障を来さない限度で,ちびちびブログをやる予定です。

 何ともありがたく思うのは,元依頼者の方々から,「元気でやっています」,「その後はしっかり頑張っています」という近況報告をいただくことです。
 そのうち1通に「2年前にお世話になりました。ありがとうございました。その後は家族揃って頑張っています。」という嬉しいコメントがありました。
 しかし,差出人を書き忘れて氏名不詳でいらっしゃる。どなたか分かりませんが,この場を借りて,「頑張って下さい」と申し上げたいです。

 さて,正月気分を吹き飛ばし,気合いを入れ直すために,
   「大吟醸 憲法と人権 2007」
を紹介させていただきます。
kenpojinken2.jpg

 宣伝文句には,
 本商品の特別販売は、佐々木酒造と京都弁護士会、京都弁護士協同組合のコラボレーションにより 2005年に誕生した企画です。
 洛中唯一の伝統ある造り酒屋佐々木酒造が仕込みます。
とあります。

 京都弁護士会は,なかなか頭が柔らかい!お見事です。

 詳しくは,http://jurakudai.com/kenjin/ をどうぞ。
2008.01.06 憲法の新機軸
 憲法というと「自由」と「平等」が二枚看板だと連想する人も多いだろう。

 日本には「自由」があふれ、「平等」が徹底されている。
 だから、日本は良い国だし、それを支える憲法も素晴らしい。
 ・・・・・・私も、そんなふうに受け止めてきた一人だ。

 しかし、最近は、この「自由」と「平等」という言葉が一人歩きし、かえってクセモノになっている。
 たとえば....
 ◆経済の世界に「自由」を徹底しようとして新自由主義がはびこっている。
   経済って、本当は「経世済民」という意味のはずなのに。
 ◆「平等」を、「公平」と誤変換して逆差別を起こしたり、「機会の平等」と誤訳して競争主義を煽ったりしている。
   「法の下の平等」って、人権をあまねく行き渡させる道具のはずなのに。

 これを逆手に取られて、「自由」を限定し社会秩序を徹底すべしという極論的な改憲論も主張されたりする。
 憂慮すべき閉塞的な状況だ。

 ところが、この「自由」と「平等」という憲法の旧機軸の閉塞感に対し、憲法学者の棟居快行先生(むねすえとしゆき/大阪大学教授/私が神戸大学に通っていた頃は神戸大で教鞭をとっておられた。もっとちゃんと授業を聞いておけばよかった!)が、憲法の新しい機軸を打ち出しておられる。

 「個人の尊重」「社会の公正」という2つのキーワードだ。

 読売新聞の新春インタビュー「この国をどうする」という連載記事で、1月5日に棟居快行教授のインタビュー記事が出ている。
 詳しくは、しばらくの間はネットにも記事が出ているし、動画で生声も聞けるので、そちらをごらん頂きたい(→こちらより

 そのうちのいくつかの言葉がとても示唆的だ。

 「自由と平等は憲法の基本的価値ですが、今日的には別の言葉に置き換えた方がいいかなと最近思っているんですよ。」
 「自由とか平等とかを全部あわせた『個人の尊重』というキーワードが一方で必要で、他方で『社会の公正』というのも独立した価値としてある。」
 「『個人の尊重』と『社会の公正』の調和をどこに見いだしていくかということで憲法秩序を語った方がいいかもしれない。」
 「『自由と平等』というフランス革命的なカードではなくて、もう少し現代の日本にあわせたカードで政策を切り分けたほうが、結局2大政党にうまく移行できる。」


 この棟居先生のお話には、ハッとさせられた。
 読売新聞が主張する意図とは異なるのかもしれないが、私にはとても良い新春記事だった。

 しかし、棟居先生は、実は憲法13条をそのまま率直に解説しておられるに過ぎない。

憲法第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

 このとおり、憲法13条は、
  ◆日本の国で最も重視すべき視点は、
  ◆個人の尊重という価値であり、
  ◆それを公共の福祉(≒社会の公正)と調和させることである。
と言っている
のである。

 「公共の福祉」という概念に、「社会の公正」という意味合いを持たせているところに、現代に生きる私たちに分りやすさを与え、社会の中に憲法を溶け込ませる工夫が見られる。

 いろいろ議論した末に、基本に立ち戻ることに帰結する、というのは巷によく見られることである。
 憲法を入手したころに「自由」「平等」「平和」という目新しさや斬新さに心を奪われてきたけれども、60年経過した今、あらためて基本に据えられている、
  「個人の尊重」と「社会の公正」
を機軸に据え直して、憲法の再発見・再確認のすすめ、その味わいを噛み締めていく必要があると思った。
News for the People in Japan
という情報発信メディアがあります。
   →http://www.news-pj.net/

 私たちにとって、社会にとって、見逃してはならない重要で有益な情報を、毎日たくさん集めて整理して、発信しているサイトです。
 このHPには、次のような説明があります。

当サイトは、20代、30代を中心とする弁護士、ジャーナリスト、フリーランス、大学教員、学生、主婦などをメンバーとした 「PEOPLE’S PRESS」が運営している市民メディアです。私たちは、日頃取り上げられることが少ない情報も含めて、社会を 「知ル」 ための情報を発信していきます。

 どうやら、若手弁護士を中心に頑張っているグループのようです。
 取り上げている情報の「内容」「質」「センス」が、私のスタンスにも非常に近いように思っていましたが、30代の弁護士も中心にいらっしゃるようですから、なるほどなあ、とうなづけます。

NewsforthePeopleinJapan.jpg

 最近の社会の硬直化、体制翼賛化、監視社会化、ポピュリズム化の主因の一つに報道機関の脆弱化があることは疑いないところです。
 「第4の権力(マスコミ)に期待ができないなら、主権者(市民)みずからが立ち上がって情報発信すればよいではないか!」というたくましいコンセプトは、民主主義の自律性の実践というべき取り組みで、たいへん高く評価できると思います。

 ところで、私のブログも、いつのころからか
    「NPJ お薦め ブログ」
というコーナーに取り上げられるようになっていました。
 NPJの編集者の方に、一方的に感謝していたところですが、どういうわけか、今春より、
    「NPJ お薦め 論評」
というコーナーに移されることになったようです。
 論評のコーナーには、この分野の第一人者のヤメ蚊弁護士さん(=NPJのお一人か?)や天木直人さんのブログもあって、一介のラーメン弁護士に過ぎない小市民ブログとしては、恐縮の極みです。
 せいぜい「論評」といえるような代物を、週に1回程度は書かないとなあと、気が引き締まる思い(重い)です。

(※なお、私は面識はありませんが、ガンジー大山弁護士(あの 「憎いし苦痛美しい国」の作者!)の名回文コーナーは傑作です。いずれも座布団10枚ものです!http://www.news-pj.net/npj/kaibun/index.html

 さて、NPJの発足記念のシンポが予定されているとのことです。
 ここであわせてご紹介させていただきます。
npj2.jpg
fukkousinnpokiji.jpg いよいよ「日本災害復興学界」が立ち上がります。

 これまでわが国には、
   「日本自然災害学界」
      とか
    「日本地震学会」
など、災害そのものについて研究をするアカデミックな学会は存在していました。

 しかし、フィールドワークや実践が中心となる「復興」についての学会はありませんでした。
 したがって、この学会の発足は、日本で始めての取り組みとなります。

 元旦(1月1日付)の神戸新聞の記事にも大きく出ていました。
 (後掲引用のとおりです。)

 この日本災害復興学界の立ち上げにあたって、1月13日にシンポジウムを行うことになりました。
 そのチラシをご紹介します。
 詳しい内容は、http://www.fukkou.net/column/20080113-22.html まで。

 テーマは、「格差時代の復興戦略を問う」です。
 現在の社会のあり方と密接な関係を持ちながら検討を進めていくところに、この分野のフィールドワークの特徴があります。
fukkousinpo.jpg
2008.01.03 生きる力
 今日は子どもの宿題との格闘の一日だった。

 1年生(次男)の宿題は「むかし遊びをする」である。
 要するに、福笑いとか、こま回しとか、凧揚げとかをするというものだ。

 こま回しは私が不得意であるし、近所に凧揚げをする場所も無いということもあり、本人の希望により、すごろくをやった。

 すごろくといっても、人生ゲームの子ども版のようなものだ。
 コマを進める毎に、「1000円もらう」とか「2000円払う」とか、いちいちお金の受け渡しをするヤツで、極めて現実的だ。
 経済観念の育成に役立つのかなあと思いながら、サイコロを振るより、紙幣の受け渡し役が忙しい。

 おめでたさも中ぐらいのような感じ。

ikirutikara.jpg さて、3年生(長男)になると、もうちょっと宿題は本格的になる。
 正月らしく「書き初め」である。

 テーマが決められていて、お手本には、
    生きる力
とある。
 意味はよく分らないけれども、とにかく宿題だから、やらないといけない。

 2時間あまりにわたって格闘し、テーブルの上を墨だらけにし、「ちゃんとやりなさい!」などと怒号を飛び交わせながら、なんとか一応の代物が完成した。
 (我が子の特選作品には名前を入れてしまったので、こちらは次点の作品であります。)

 この格闘を経ることによって、おめでたい雰囲気などすっかり消し飛んで、正月気分も引き締まった(?)

 宿題というものはありがたい。


 ところで、「生きる力」という言葉だが、
平成8年の文部省・中央教育審議会の答申の中に、きちんと定義付けられているのを知った。
 次のような文句である。
 我々はこれからの子供たちに必要となるのは、いかに社会が変化しようと、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力であり、また、自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心など、豊かな人間性であると考えた。たくましく生きるための健康や体力が不可欠であることは言うまでもない。我々は、こうした資質や能力を、変化の激しいこれからの社会を生きる力と称することとし、これらをバランスよくはぐくんでいくことが重要であると考えた。


 つまり、今年の宿題の書き初めは、
   自発的課題発見能力、
   学習意欲、
   思考力、
   判断力、
   行動力、
   問題解決能力、
   自律性、
   協調性、
   優しさ、
   感受性、
   人間性、
   健康体力、

という多元的な目標を一つの言葉でいいあらわしたものだということのようだ。

papayori.jpg こうしてみると、すごい年頭の誓いである。

 もっとも、ここで要求されている資質をよく読んでみると、一つ気が付くことがある。
 この中に、お金を稼ぐ力(経済力、生活力)というのが挙げられていない。
 その点も、いかにも教育的な感じだ。

 現実の社会で「生きる力」というと「稼働力」と理解されているような向きもあるけれど。
 まあ、「競争力」とか「格差を克服する力」というのを挙げるわけにはいかなかっただろうが。

 なお、「経済観念の育成」という目標との関係では、小学1年生の「すごろく」の宿題にはそれが含まれ、小学3年生の「生きる力」には含まれていない、というのも何か不思議な感じだ。

 ちなみにあまった半紙が1枚あったので、私が、子どもたちに訓示を書いた。
 しかし、子どもたちは、見向きもしない......
 (というか、自分に言い聞かせるためのものかも・・・・お粗末ですが。)
 憲法についていろいろ議論をしていると,
    「それって現実的じゃないよ」
という反論を受けることがあります。

 この「現実的」という言葉は妙に説得力を持っているような気がします。
 しかし,よ~く考えてみると,意味がよく分かりません。
 せっかく丁寧に理論や主張を積み上げて話をしていても,「非現実的」というひとことで全てが吹っ飛ばされるようなこともあります。
 なんだかゴマかされているような気さえします。

 この点について,あの丸山眞男が,今から55年以上前に,見事に論破しているのを知りました。

(※リベラル憲法学の大家,浦部法穂先生が,法学館憲法研究所のHPで紹介しておられます。詳しくは,そちらをご覧下さい。 →こちらです。)。

 それは,1952年に発表された「現実主義の陥穽」というエッセイ。
 丸山眞男は,既に私たち日本における「現実的」という言葉には,次のように,3つの特徴があると指摘しています。
 「現実」というのは,もっぱら「既成事実」と置き換えられがちである。
 「現実」は,与えられるもの(=既成事実)と,自ら創っていくものの両面があるのに,後者は無視されがちである。
 なので,「現実的たれ」というのは、既成事実に屈伏せよということにほかならない。

 「現実」の意味を一次元的に捉える傾向がある。
 本来は,社会的な現実はきわめて多元的であるのに,「現実を直視せよ」というときには,その多元的なところは無視されて,一つの側面だけが強調される。
 たとえば,再軍備問題などは,決して現実論と非現実論の争いではなく、実はそうした選択をめぐる争いにほかならないのに,一方の側からだけ「現実論」を強調するのはおかしい。

 「現実」というのは,その時々の支配権力が選択する方向と等しいものと理解されがち。
 逆に言うと,これに対する反対派の選択する方向は容易に「観念的」「非現実的」というレッテルを貼られがちになる。

 かなりかみ砕いて意訳しましたが,それでも難しいので,私なりに要約すると,

  注意しなければならない「現実的じゃないよ」という言葉は,

   ◆これからの社会を創っていこうという意欲が乏しく,

   ◆目の前の状況の理解について一面的にしか捉えず,

   ◆支配的(権力的)な意向に裏付けられている,

ような発言です。


 こういう文脈で「それって現実的じゃないよ」という発言を耳にする場合は,単に「現実的」というマジックワードでゴマカされているに過ぎないと見てよさそうです。

 ただ,我が国で使われている「現実的」という言葉のほとんどが,そういうゴマカシ色に染まっているような気もしますが。
 今年の初日の出は,六甲アイランドからです。20080101073704.jpg
 あらためて,本年もよろしくお願いいたします。
謹賀新年

 旧年中は,きまぐれな私のブログにご来訪いただいたみなさん,
 いろいろ勉強させていただいたリベラル系&法律系のブロガーのみなさん,
 叱咤激励いただいた数多くのみなさん,
 今年もどうぞよろしくお願いします。

 本年も,「たいせつなこと」が何であるか,
    そして,
 真に何に目を向けるべきか,
を考えるためにきまぐれペースで続けさせていただきます。
 
 これが私の今年の年賀状です。
nengajo2008.jpg


 Don't forget our Constitution and Mission.
 憲法の価値を共有し,各自の“ミッション”を実践する
というのを私の年頭の言葉といたします。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。