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◇何の罪もない高校生を卒業に対する深刻な不安に陥れ,
教育現場に立つ校長らを深く悩ませ自殺に至らせ,
◇学校や教育委員会に対する社会的バッシングを呼び,
◇国(政府)による教育現場に対する指揮・監督権を正当化させ,
教育基本法の「改正」に対する大きな推進力となっている,

履修不足問題ですが,その履修科目基準となっている,
 学習指導要領
自体に問題があるのではないかと,私は思っていました(→10月26日のブログなど

この点について,私のブログの師である村上先生から,学習指導要領の本当の意義と目的を教えてもらいました(→弁護士村上英樹のブログ

昭和22年度に初めて作られた学習指導要領は,次のような書き出しで始まっています(→過去の学習指導要領のデータベースより
 生まれたときの“現場と生徒の個性に応じて弾力的に活用すべき”真の学習指導要領の姿と,
 現在の“国が一定の基準を現場に押し付け,指導・懲罰の根拠として機能する”変貌した学習指導要領の姿,
との違いに驚きを禁じ得ません。


学習指導要領 序論

一 なぜこの書はつくられたか

 いまわが国の教育はこれまでとちがった方向にむかって進んでいる。この方向がどんな方向をとり,どんなふうのあらわれを見せているかということは,もはやだれの胸にもそれと感ぜられていることと思う。
このようなあらわれのうちでいちばんたいせつだと思われることは,これまでとかく上の方からきめて与えられたことを,どこまでもそのとおりに実行するといった画一的な傾きのあったのが,こんどはむしろ下の方からみんなの力で,いろいろと,作りあげて行くようになって来たということである。
 これまでの教育では,その内容を中央できめると,それをどんなところでも,どんな児童にも一様にあてはめて行こうとした。だからどうしてもいわゆる画一的になって,教育の実際の場での創意や工夫がなされる余地がなかった。
このようなことは,教育の実際にいろいろな不合理をもたらし,教育の生気をそぐようなことになった。
たとえば,四月のはじめには,どこでも桜の花のことをおしえるようにきめられたために,あるところでは花はとっくに散ってしまったのに,それをおしえなくてはならないし,あるところではまだつぼみのかたい桜の木をながめながら花のことをおしえなくてはならない,といったようなことさえあった。また都会の児童も,山の中の児童も,そのまわりの状態のちがいなどにおかまいなく同じことを教えられるといった不合理なこともあった。
しかもそのようなやり方は,教育の現場で指導にあたる教師の立場を,機械的なものにしてしまって,自分の創意や工夫の力を失わせ,ために教育に生き生きした動きを少なくするようなことになり,時には教師の考えを,あてがわれたことを型どおりにおしえておけばよい,といった気持におとしいれ,ほんとうに生きた指導をしようとする心持を失わせるようなこともあったのである。

 もちろん教育に一定の目標があることは事実である。また一つの骨組みに従って行くことを要求されていることも事実である。
しかしそういう目標に達するためには,その骨組みに従いながらも,その地域の社会の特性や,学校の施設の実情やさらに児童の特性に応じて,それぞれの現場でそれらの事情にぴったりした内容を考え,その方法を工夫してこそよく行くのであって,ただあてがわれた型のとおりにやるのでは,かえって目的を達するに遠くなるのである。
またそういう工夫があってこそ,生きた教師の働きが求められるのであって,型のとおりにやるのなら教師は機械にすぎない。そのために熱意が失われがちになるのは当然といわなければならない。
これからの教育が,ほんとうに民主的な国民を育てあげて行こうとするならば,まずこのような点から改められなくてはなるまい。このために,直接に児童に接してその育成の任に当たる教師は,よくそれぞれの地域の社会の特性を見てとり,児童を知って,たえず教育の内容についても,方法についても工夫をこらして,これを適切なものにして,教育の目的を達するように努めなくてはなるまい。
いまこの祖国の新しい出発に際して教育の負っている責任の重大であることは,いやしくも,教育者たるものの,だれもが痛感しているところである。われわれは児童を愛し,社会を愛し,国を愛し,そしてりっぱな国民をそだてあげて,世界の文化の発展につくそうとする望みを胸において,あらんかぎりの努力をささげなくてはならない。そのためにまずわれわれの教壇生活をこのようにして充実し,われわれの力で日本の教育をりっぱなものにして行くことがなによりたいせつなのではないだろうか。

 この書は,学習の指導について述べるのが目的であるが,これまでの教師用書のように,一つの動かすことのできない道をきめて,それを示そうとするような目的でつくられたものではない。
新しく児童の要求と社会の要求とに応じて生まれた教科課程をどんなふうにして生かして行くかを教師自身が自分で研究して行く手びきとして書かれたものである。
しかし,新しい学年のために短い時間で編集を進めなければならなかったため,すべてについて十分意を尽くすことができなかったし,教師各位の意見をまとめることもできなかった。ただこの編集のために作られた委員会の意見と,―部分の実際家の意見によって,とりいそぎまとめたものである。この書を読まれる人々は,これが全くの試みとして作られたことを念頭におかれ,今後完全なものをつくるために,続々と意見を寄せられて,その完成に協力されることを切に望むものである。


私は,現在の学習指導要領の拘束力と内容に,多大な疑問を持っていました。しかし,もともとの学習指導要領は,教育基本法の理念に忠実な内容であり,決して現場を拘束するようなものではなかったわけです。私は,学習指導要領の生まれたときの姿を知りませんでした。

教育は現場に任せるというのが本当のあるべき姿です。
今のこの扇動的かつ感情的な世論の雰囲気やマスコミ情報にまどわされず,目を覚まして,何が本当の教育再生に資するのかを,考えていきたいものです。

(ついでに気付きましたが,この中には「国を愛する」という言葉も出てきていますね。今の議論の真の論点が,国を愛すること自体の当否ではなく,それを“強制すること”の当否であることも,分かりますね。)


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