来る9月1日に,近くの教会で,森祐理さんのミニコンサートが開かれます。

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公式HPはこちら http://www.moriyuri.com/yuri/


 森さんには、震災復興の活動を通じて知り合いました。とても素敵な方です。
 NHKで歌のおねえさんもしておられました。

 ご自身は、阪神・淡路大震災のとき、読売新聞に就職の決まっていた弟さん(当時は神戸大学の学生さん)を失くされ、それをきっかけに、日本だけでなく世界の各地の被災地で、元気と希望を与える歌声を届ける活動をはじめるようになられました。

 私たちお堅い専門家の集まりで、侃々諤々議論をしていたとき、お招きした森さんのミニコンサートを聴いて感動し「議論よりも先にやることがある!」と立ち上がって動き出した、というエピソードもあります。

 以前に、兵庫県弁護士会のHPで、森さんと会長の対談がアップされていて、何度かリンクしていたのでのすが、リニューアルの際に削除されてしまったので、以下のとおり、こちらに掲載をさせていただきます。
(※私が原案を作り、滝本会長が亡くなる直前に病床で編集した原稿です。だから、滝本さんの発言部分は遺書みたいなもんだと思ってます。)

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新春対談

福音歌手      森 祐理氏
兵庫県弁護士会会長 滝本雅彦


滝本  あけましておめでとうございます。今日はよろしくお願いします。
森   あけましておめでとうございます。

歌手になるまで


滝本  森さんは、歌手としてご活躍中ですが、簡単にご経歴などをお聞かせいただけますか。
森   私は、京都市立芸術大学の声楽科で声楽の勉強をしていました。小さい頃から、歌ったり踊ったりするのが好きで、ミュージカルがしたかったんです。ある時、NHKの歌のお姉さんがミュージカルスターになったという新聞記事を見つけたので、「あ、これだ!」と思い、早速NHKの東京の放送局に行きました。ところが、今はオーディションはしておりませんということで、門前払いだったんですね(笑)。
 それで、これはNHKの内部に入らないとだめだと考えて、大学卒業と同時にNHKの京都放送局で仕事をするようになりました。京都放送局では、ニュースとか天気予報を読んだり、高校野球のレポーターをしたり、いろんなことをさせていただいたんですが、やっぱり歌いたくて、歌いたくて。それで、部長さんにその気持ちを伝えたら、教育テレビのオーディションがあるから受けにいきなさいと言ってくださいました。ところが、それは理科のオーディションだったんです(笑)。
滝本  えらく教科が違いますね(笑)。
森   ごめんなさい、何かプロフィールというより笑い話みたいですけど。それで、理科のオーディションを受けて最終選考までいったのですが、最終選考ではコオロギを持てますかと尋ねられて…。
滝本  ええ~。
森   私昆虫が苦手で。もうダメだと思って「すみません、私、昆虫だめなんですけど、歌を勉強していますので歌を歌わせてください。」と言って、その場で立って歌を歌ったんです。審査員の先生方は、びっくりしていらっしゃいましたけれども(笑)。
 でも、その歌のおかげで、理科班の方が音楽班のディレクターと相談してくださって、あらためて音楽のオーディションを受けさせていただき、『ゆかいなコンサート』というNHK教育テレビ番組の歌のお姉さんに決まったんです。そこから東京での生活がスタートしました。
滝本  なるほど。念ずれば通ずるということですね(笑)。

ゴスペル歌手


森   その後は、NHKの歌のお姉さんをしながら、劇団でミュージカルなどに出演していました。
 ところがその2年後に、ある日、突然“声を失う”という体験をしました。歌を歌う者が、声を失ってしまったんです。その体験がきっかけで、「ああ、私は自分の力で歌っているんではない、歌わせていただいていた」、「生きているんじゃなくて、生かされているんだ」と、はじめて自分と向き合う体験をしたんです。そこから、もう一度歌えるのなら、ただ自分のために歌うんじゃなくて、もっと大切なことのために歌を用いていただきたいと思うようになりました。
 私は小さい頃からクリスチャンでしたが、その時をきっかけにクリスチャンアーティストとしての歩みがスタートしたんです。
滝本  具体的にはどんな活動をしておられるのですか。
森   教会でのコンサートを通して神様の愛をお伝えするのが中心です。その他学校や病院、企業、いろいろな施設、刑務所にも行かせていただき歌わせていただいています。そういう中でみなさんが心の糧を必要としているんだっていうことをいつも感じます。
 1年間で平均120回ぐらいのコンサートがありますが、福音歌手としての活動を通して、日本中、世界中、本当にいろいろなところに行かせていただきました。
滝本  福音歌手っていうんですか。
森   はい。福音歌手、言い換えるとゴスペル歌手ですね。ゴスペルっていうのは、“グッドニュース”日本語で言うと“良き知らせ”という意味があるんです。ゴスペルっていうと、一般には、身体の大きい黒人の人が歌うようなイメージがあるんですけども、そういう限られたイメージじゃなくて、クリスチャンとして神様の素晴らしい愛を歌う、神様を讃える賛美の歌をゴスペルというんですね。だから、例えばゴスペル演歌があったり、ゴスペルフォークがあったり、ゴスペル童謡があったりします。国立文楽劇場なんかでゴスペル義太夫などを歌っていらっしゃる方もいらっしゃるんですよ。
 その中で、私は、賛美歌と共にゴスペルとしての童謡とか、懐かしい歌、ミュージカルの歌などを歌って、神様の慰めや励ましを贈るという活動をしています。

震災と弟の死


滝本  森さんは、阪神淡路大震災で、大変なご経験をされたとお聞きしているんですけども、具体的には、どういうことなんでしょう。
森   福音歌手としての活動を始めて2年ぐらい経って、それがちょうど軌道に乗ってきたころに震災が起きました。
滝本  あれは、平成7年1月17日午前5時46分でしたね。
森   その前の日に岐阜県でコンサートがありまして、新幹線の駅で私は東京へ、ピアニストの方は芦屋在住でしたので神戸方面へ、それが運命の分かれ道でした。私は、17日の朝ごく軽い揺れを感じて「あ、地震だ」と思い目を覚ましたんです。でも、疲れていたので、そのまますぐ寝てしまいました。ところが、朝テレビをつけて、びっくりしました。まさかその軽い揺れで目を覚ました瞬間に、弟の命が天に逝ったとは、夢にも思ってなかったです。
滝本  弟さんは、震災で亡くなられたのですか。
森   ええ。あの最初の日は、当時大阪に住んでいた両親に電話をしても全然つながらなくて、夜中の12時ぐらいになってやっと電話が通じたんです。「お母さん大丈夫なの」って聞いたら、「大丈夫だけど、神戸の渉から連絡がないの。」と話していました。
 翌18日の朝、母から電話があって「渉から電話がないから、お父さんが探しに行かはった」と。後から聞くと、父は大阪から西宮北口まで電車で行って、そこから東灘区にある弟の下宿まで3時間ほど歩いて行ったそうです。ご存じのとおり、神戸の町は怪獣が暴れ回ったようにめちゃくちゃで。弟は1階に住んでいたんですが、下宿の2階が地面にのってたっていうぐらいで、もう見る影もなかったそうです。
滝本  今、森さんの話をお聞きして、本当にあのときのことを思い出しました。もうそこらじゅうがそういう状況だったんですよね。弁護士会の安藤会長(当時)も、2階に寝ていて、揺れがおさまって窓を開けたら、なぜか道路が目の前にあったということで、1階で寝ていた安藤先生のお嬢さんは生き埋めになった。お嬢さんは、結果的に助かったのですが。
森   同じですね。弟も、生き埋めになっていたんです。でも、そんなこと父は夢にも思わず、辛うじて残っていた大家さんの家に行って尋ねると、「分からないけど、森君はもうバイクがないから、たぶん逃げたんじゃないか」って言ってくれたそうなんです。
 でも親っていうのは不思議なもので、胸騒ぎというか悪い予感がしたそうです。それで、屋根とか瓦礫を手で掘ってみたら、弟の足が手に当たった。中にいることが分かっているんですけど、必死に引っ張っても引っ張り出せない。どうしても動かせないので、「すみません、息子が埋まっているので助けてください」って地元の方や近くにいた何人もの方に声をかけて、それでやっと掘り出したそうです。弟が出てくるまで3時間ぐらいかかったそうですが、ようやく出てきたときには、冷たくなっていたということでした。19日に毛布でくるまれた弟が家に運び込まれたときに、私の心の中に何かでガツンと開けられたような大きな穴があき、どうすることもできない心の傷になりました。でも、その穴のおかげで、人の痛みとか悲しみとか、優しい言葉が流れ込んでくるようになったんです。
滝本  …大変でしたね。
森   …そうですね。
滝本  弟さんは当時大学生だったのですか。
森   大学4年生でした。
滝本  じゃあ、就職なども決まっていたのですか。
森   ええ。読売新聞に内定が決まっていて、記者になる予定でした。もう会社の研修なども始まっていて、「おねえちゃんのことを、いっぱい記事に書いて有名にしてあげるから」なんて言ってくれていました。弟とは、本当に仲良しで、「俺の尊敬するお姉ちゃんやからな」とか言って、私が落ち込んでいるときでも励ましてくれる弟でした。
 私にとって、弟の死はあまりにも大きい出来事だったので、ずっと弟の顔が見られなかったんです。だけど、明日がお葬式という日にどうしても会いたいと思って、それで1人奥の部屋に行って、白い布をはずしました。そしたら、確かに顔にはかなりダメージがありましたけど、口は全然損傷がなくて残っていたんです。
 その口をじっと見ていたら、私の心の耳に、「おねえちゃん、俺、死んでへんで」って聞こえてきたんです。「俺、もっとええところに行ったから、心配したらあかん」っていうような声が聞こえたんです。それで、私は「あっ!」と思いました。私はクリスチャンです。弟は天国に行ったのだから、また会える、また会ったときに、「なんや~、尊敬するお姉ちゃんやったのに」って言われたくないって思ったんです。そう思うととめどなく涙があふれてきました。それで、また会えたときに「ようやったな」って、弟に言ってもらいたいと思い、立ち上がって、突き動かされるように神戸に出ていくことになったんです。
 それから、神戸で、お友達とかいろんな方々に助けていただいて、瓦礫の中や、炊き出しの中で歌を歌わせていただきました。それが、「希望の翼コンサート」という救援コンサートの始まりだったんです。
滝本  (涙をふきながら)すみません。もう涙が出て…。歌手活動への影響ってありましたか。
森   ええ。私は、「戦前戦後」と言っているんですけど、それぐらい変わりましたね。
滝本  そうでしたね。確かに戦前戦後ですね。神戸の人間にとっては、太平洋戦争を境目に戦前戦後と言うのと同じ意味で、震災の前と後って言えるような気がする。僕の感覚でも、あの経験を共有している人は今の人、そのときに既に亡くなっていた人は昔の人、という感じです。

震災直後の弁護士会


森   弁護士のみなさんは、どんな感じだったのですか。
滝本  私のことを言うと、あのときは、まさか神戸にあんな地震が来るなんて夢にも思ってないから、最初は何がなんだかわかんなかったんですね。で、僕のベッドの横に息子が寝てて、嫁さんと娘が同じベッドに寝てたんです。グラグラっと来た瞬間に、僕は息子に覆いかぶさって、嫁さんは娘に覆いかぶさって。後で、こもごも「苦しかった」って文句を言われました(笑)。それで、真っ暗な中、ラジオをつけたら、「神戸方面で地震があった模様です、火の手は上がっていない模様です」って言ってたけど、雨戸を開けると、大きな火柱が3本上がってるんです。大阪からは見えなかったんやろね。あれ以来、マスコミの放送はもうひとつ信用できない(笑)。
 夜が明けるまでじっと待って、夜が明けた。嫁さんの顔を見ると「私の実家を見てきて」っていうふうに顔に書いてあるわけ。当時小学校6年生の息子をたたき起こして、「おい、おばあちゃんのところに行くから、ついてこい。ひょっとすると、お父さんとお前で、おばあちゃんと曾おばあちゃんの死体を担いでこないとあかんかもわからへんから、覚悟してついてこい」と言って、御影から岡本まで行ったわけです。息子は、「え、だって僕まだ小学6年生だよ。白虎隊の年にもなってないよ。」などとぶつぶつ言ってたんですが、「白虎隊は敵が鉄砲や刀をもって攻撃してきたけど、地震は鉄砲も刀ももってこうへん。お前はここで元服、大人扱いするから甘えるな。」って言いきかせました。
 その道中で、えらい普段と景色が違うんやね。2階建てが1階建てになってたりで。結果的には、おばあちゃんと曾おばあちゃんの生存を確認して家に帰った。だけど、その行き帰りの道中で、どうもこれは違うぞと思いました。その風景を見ている中で、私は、当時、弁護士会の副会長をしていましたが、それまでの10ヶ月余りの副会長の経験で自覚していた“弁護士”じゃない“弁護士会”がより色濃く出てきた。要するに、弁護士会の役員としての意識ですね。歴史で関東大震災のことを多少なりとも知っていた。大杉栄虐殺事件だとか、朝鮮人大量殺害事件のことなんかが頭をよぎったんですね。こんな状態だったら、どこでどんな人権侵害事件が起こっているか分からん、そのときに、弁護士会役員がボーっとしとったんでは話にならん。ということで、弁護士会へ駆けつけました。
森   その日のうちに、弁護士会館に駆けつけられたんですか。
滝本  そう、着いたのは朝10時過ぎだったと思う。弁護士会館へ来たんです。岡本の嫁さんの実家から、御影の我が家へ帰ってきて、嫁さんに、「おい、おれ弁護士会に行くぞ」って言ったら、嫁さんがギョっとした顔してましたが、「やっぱり行くの」って思ったらしい。で、嫁さんが「ちょっと待って」と言って奥から持ってきたのが、洗いざらしの真っ白い下着だったんです。そこで、「ああ、やっぱりこいつはおれの嫁さんや」と感じましたね。お互い古い日本人やから、交わした言葉は、「ほな行ってくるわ」、「気をつけて」っていうだけなんですけども、その言葉は、「おい、お前死ぬなよ。子ども頼むで」っていうことやし、嫁さんの言葉にも「あなた死なんと帰ってきて」っていう、そういうのが込められていた。うん、かっこよくいうと、高倉健が家を出るときに、藤純子が送り出すという感じか(笑)。
森   当時の状況からすると、そういう意味が込められていましたよね。
滝本  それで、弁護士会館に着いて、とりあえずご近所の人をここに収容せんとどうにもこうにもならんと思って、最大時600人を収容しました。4階の講堂を全部あけて、1階ロビーと2階の一部と、階段で。
森   そのときの即決がなかったら、この阪神大震災で、弁護士会と市民との交流はスタートしなかったんじゃないでしょうか。
滝本  ああいうことが出来たので、弁護士会としては市民の皆様に、一定の信頼をしていただいているのではないかと思います。もともと弁護士会なんて、避難所としてカウントされているわけでもないし、存在としては微々たるものなんですけども、目の前で、困っておられる市民がおるのに、手をこまねいているっていうのは、やっぱりこれは違うだろうと。ここでやらなきゃ男じゃないって(笑)。やっぱりそれも、その瞬間で何が一番大事かっていうことを考えれば、そんなに難しい決断ではなかったというふうに思います。
森   そのときの優先順位ですよね。一番大事なことって。
滝本  本来であれば、常議員会の承認なり、役員会の承認がいるんでしょうけれども、そんなこと言ってる場合ではなく、緊急事態ということで。ですから、どなたからも褒められこそすれ、叱られたことは一度もないです(笑)。

震災後のコンサート


滝本  震災後に始めた新しい活動についてお話いただけますか。
森   さきほど申しましたとおり、被災地で歌い出したのがスタートなんですけども、被災地にはステージがあるわけでもなく、別に招かれて行ったというわけでもないんですね。私としては、とにかく何かをしたいと思うものの、まず水や食料が足りない時期だったんです。だから、そんな時に歌いに行って、いいんだろうかという葛藤がありました。
 そういう葛藤を心に置いたまま、一番最初に行ったのは、炊き出しの行列のところでした。震災後の初期のころは、温かい食物が手に入りにくかったので、熱いおうどん一杯の為に、3時間ぐらいお布団をかぶりながら行列を作って待ってらっしゃる。その方々が少しでも気がまぎれて、慰めになれればそれでいい、そう思って、簡易のシンセサイザーとマイクで歌いました。行列の方々は、最初、何してるんやろうっていう感じで、じろじろ見ておられました。私としては、第一声で「こんなときに、何してるんだ」って怒鳴られたら本当にどうしようとか、思ってこわかったですね。
滝本  すごいプレッシャーですね。
森   そうですね、プレッシャーもありました。正直、かなりの葛藤がありましたが、でもエイヤって感じで勇気を出して始めました。最初に、「阪神大震災で亡くなられた方、避難されている方々のために、黙祷をお捧げします」と言って黙祷しました。そして「私自身も弟を失いました。でも、これからは悲しみだけではない。元気を出していかなければいけないと思います。歌を歌いますので、皆さん聴いてください」と言って、歌を歌ったんです。最初のうちはみんな、ぽかーんという感じでしたけど(笑)。曲は、悲しい歌じゃなくて、ふるさとの歌とか懐かしい歌だとか、そういう歌を選んで歌いました。そしたら、だんだんだんだん、みなさん食い入るように聴いてくださって、最後には「いやー、おねえちゃんもう1曲、もう1曲、アンコール、アンコール!」って。「よかった、よかった、ほんまおおきに、おおきに」と声を掛けていただけました。それで、「ああよかった、これが必要なんだ」って思い、救援コンサートが始まったんです。
 もちろん、当時は水とかパンとかが必要なときで、歌でおなかがいっぱいにはならないんですけども、でも被災者の方々から、「あんたの歌を聴いてな、やっとご飯食べたいっていう気になったわ」って言われて思ったんです。どんなに食料が積まれても、どんなに水があっても、それに手を伸ばす、それを食べようって思うエネルギーは、心から出てくるものなんだ。だから、ただ食料の救援物資だけではなく、心の救援物資が必要だって。
滝本  そうなんだよね。心の救援物資なんだよね。
森   私のやるべきことは、心の救援物資を届けることだ。その使命を果たすために、瓦礫の中を歌って回ったんです。その後は、自家発電機を回して電源を取り、数多くの避難所や仮設住宅を歌って回りました。どこも本当に喜んでくださって、みなさんとてもあたたかく受け入れてくださいました。仮設住宅の中では、大阪の八尾市の仮設が印象的です。そこの方々は、やっぱり遠くに離れてしまって置き去りにされたような気持ちがあったんでしょうか。「ようきてくれた、ようきてくれた。こんな遠くに来てしもたけど、わたしら神戸に帰れるよな」って泣きながら一緒に歌ってくださいました。
 『しあわせ運べるように』という歌があるんですけど、その歌は必ずみなさんと一緒に歌いました。被災地に行く度に、出会った方々の痛みや悲しみだけでなく、優しさや温かさが、私の心の穴から内側へとどんどん流れ込んでくるようで、逆に私のほうが励まされるんです。手を取り合い、涙を流しながら歌う中で、心を慰め合うことの大切さを感じました。
滝本  巡回コンサートの思い出としてはどんなものがありますか。
森   思い出といったら数え切れません。ぎゅうぎゅうのバスに乗って半日かけて移動したり、ビール箱の上に立って歌ったことだとか、きりがありません。仮設には、必ず「ふれ合い広場」っていう場所があるんですね、そこで歌うといろんな人が来てくださいました。死のうと思っていた人が歌を聴いたおかげで生きていこうと思った、という手紙をもらったりして、そんな手紙を本当にたくさんいただきました。手紙も、一つ一つとても厚いものが多くて、一生懸命書いてくださったという思いが伝わってきました。
 私自身、震災以前は、どうしても自分が中心で生きていたように思います。震災で、弟の死という事実に直面し、数々の被災者のみなさんの前で歌っていく中で、ようやく人の痛みが分かるようになったというか、そういう自分の変化があると感じています。コンサートが終わった後、いろいろな方が、実は最近夫を亡くしたんですとか、離婚をしたんですとか、娘が引きこもりになったというような心の悩みを打ち明けてくださるようになりました。私にはお話を聞いて共に祈るしかできないんですけれど、その度に、歌を歌うということは、心の扉を開ける仕事なんだなと思わされています。

弁護士会と避難者とのかかわり


滝本  弁護士会としても、特に何をしたというわけでもないんですが、さきほどの「心の救援物資」という意味では、2つのメッセージを出したと思うんですよね。
森   といいますと。
滝本  1つは、近隣の皆様に、弁護士会って市民と共にあるのだというメッセージですね。そして、もう1つは、震災初日の夜、弁護士会の活動がマスコミを通じて市民に流れたんです。力の強いものが勝つ、要領のいいやつが得をする時代に戻ったのではない。今は混乱していても、そんなに遠くない日に、必ず法に基づいた秩序が回復するんだよと。弁護士会がこうしてちゃんと活動してるんやでっていう、法の支配がすぐ回復するっていうメッセージです。この2つのアピールをすることができたのは、弁護士会としてはよかったと思います。
森   そうでしょうね、弁護士会館で泊めてくれたということは、被災地の方々にとってすごく心強いことだったと思います。
滝本  でも、いろいろ大変だったんですよ。たとえば、炊き出しで思い出したけど、我が弁護士会の駐車場で、暴力団が、炊き出し始めたんです。
森   えっ、暴力団?
滝本  うん、暴力団が。
森   暴力団の方も勇気がありますね(笑)。
滝本  こちらとしてはね、暴力団と一緒に市民を救済するわけにいかん。だったら、貧しくても、冷たくても、食料は何とか地元の方が集めてきてくれるんだから、「弁護士会で寝るんやったら、やくざの飯は食わんといて」って、お願いしたんです。温かいものは出せないけど、これは僕らの力の限界だから分かって欲しい。でもうちに泊まって、やくざの温かい飯食うのは、ええとこ取りで、ちょっと筋が違うって。
 暴力団に対しては、「女泣かして稼いだ金や覚せい剤を売って稼いだ金で、温かい飯配ってどこが任侠や。誰に断って弁護士会を使っているんや」と穏やかに怒鳴りあげました。結果的には大した混乱もなく引き揚げてくれました。直後に気付いたのですが、(金属バットを持った)暴力団と対峙していた(丸腰の)僕のすぐ後に10人以上の市民の人たちが僕を守るように立っていてくださったのです。大感激でした。
森   いやあ、それは弁護士会としてしっかりとした姿勢をとられたのですね。やっぱりきちっと線引くときは線引くということは、生き方として、全てに通じるような気がいたします。さすが弁護士会ですね。
滝本  いや~、そう言って頂いたら目茶苦茶嬉しいです。ありがとうございます。

森祐理さんと弁護士会のかかわり


滝本  平成15年の1月18日に静岡で、被災者のための支援組織づくりのために阪神・淡路まちづくり支援機構のシンポジウムがあったんです。それで、森さんに無理を言って、出演していただいたことがあるんですが、そのときのことについてお話していただけますか。
森   はい、あれは1月18日でしたね。前日の1月17日は朝から晩まで、神戸で追悼のコンサートがあったものですから、その後、夜中に走って静岡へ行きまして、レセプションで歌わせていただきました。
 でも、実はびっくりしたんです。背広姿のおじさま方が大勢ずらっと並んで、しかもすっかり出来上がっておられて(笑)。そうそう、それこそ「まあまあ」って言いながらお酒を注ぎ合ったり、皆さん、和気あいあいと、すごくにぎやかな雰囲気で。控え室から見ていて、ここで歌うのかしら、どうしようって(笑)。
滝本  いやいや、本当に失礼しました。
森   大勢の弁護士さんたちの前で歌うなどという経験もなかったですから、炊き出し行列の前で初めて歌うときの勇気じゃないですけれども、ある意味、勇気が要りました。でも、阪神大震災を通して次のメッセージにつなげていくために、静岡の地でもこれから災害が起こったときに必要なことを語り継ぐべきために、今日の機会があると聞いていましたので、この会は大きな意義があるんだと思って、祈りながら歌を歌い始めたんです。
 最初あいさつしたときは、やっぱりガヤガヤしていて、「あ、なんやろ」みたいな感じでした。でもやっぱり弁護士さんたちはすごいですね。今でも、あのときの状況が忘れられないです。歌を歌いだしましたら、本当にシーンって、会場全体が水を打ったようになったんです。立食パーティーで皆さん立っておられましたけど、その方々がずーっとビールを持ったまま微動だにせずに、歌を聴いてくださった姿が目に焼き付いています。背広を着た立派なおじさまたちが、ある方は目に手をやって涙をぬぐいながら聴いてくださった。それは、頭では静岡でも震災、災害のための措置をしなければいけないと知識としてわかっておられたことが、心で理屈抜きに、やらなあかんって受け取ってくださった瞬間だったと思います。
 終わった後に、「歌聴いて、ほんまこれ神戸だけのことやないっていうことがわかりましたわ」っていう言葉を、何人もの方がおっしゃってくださったんです。だから、「ああ、この役目を果たせてよかった」とつくづく思いました。
滝本  それはどうもありがとうございました。
森   そのときに、これから私のやっていくべき使命っていうものを、新たに感じたように思います。これからは、まだ災害が起こっていない地域の方々に備えの大切さを伝えていく必要があると思います。それが実際的な数字だとか具体的な統計だとかじゃなくて、心で「ああっ」って思っていただくような、そういう歌を通してのメッセージを伝えていくことが大切なんだと、それに気付かせていただいたのが、静岡の会だったんです。だから、本当に弁護士会の先生方には感謝しています。
滝本  森さん、本当によく理解してくださってありがとうございます。平成17年2月5日の日弁連クレオでのシンポジウムにも出ていただけると聞いていますが、よろしくお願いします。

刑務所慰問活動、海外コンサートなど


滝本  ところで、森さんの重要な活動として、刑務所とか少年施設への慰問というのもあるのですね。
森   はい。やっぱり、それも震災がきっかけでした。希望の翼コンサートで歌っていた時に、被災者の方の中に教誨師の先生がいらっしゃったんです。コンサート後にお声を掛けてくださって、「森さん、失礼ですが、刑務所で歌ったことはありますか。実は、刑務所の中の者でも被災しているんです」っておっしゃるんです。「所内でニュースを見て、自分が住んでいた場所が被災しているのを知っても、もちろん駆けつけることもできず苦しんでいる収容者たちのために、慰問コンサートをしてもらえないでしょうか」と。「よろこんで行かせていただきます」とお返事して、最初に慰問したのが神戸の拘置所です。
滝本  ほう、やはり震災が関係していたのですか。
森   その後、神戸の拘置所で聴いてくださった職員の方が、転勤先でも紹介してくださったりして、広がっていきました。大きなきっかけは、網走刑務所でした。網走刑務所で歌うのは、歌手としての慰問のステータスとか言われているんですけど(笑)。
滝本  そうですか。やはり慰問にもステータスというのがあるのですか(笑)。
森   まあ、私はそんなことは思わなかったんですけど。ただ、この機会を与えられたんだから、一生懸命がんばろう、この方たちにも心の救援物資は必要だからと思って歌って、語りました。コンサートが終わって控え室に入ると、所長様が目を真っ赤にして、私の手を握り、「ありがとう」って言われ、「本当に手を焼いていた収容者が泣いている姿を見て、心打たれた」って言ってくださいました。その所長様が全国の所長会議で私の話をしてくださったそうで、それをきっかけにどんどんと機会が広がっていったのです。
滝本  韓国や、台湾などの海外でのコンサートも数多くなさっているそうですが、言葉が壁になりませんか。
森   いえ、台湾では、中国語と台湾語で歌いますし、韓国では韓国語で全曲歌います。言葉は架け橋ですのでとても大切ですね。
滝本  海外での公演も地震と関係がありますか。
森   ええ。一番大きなきっかけは、1999年9月21日の台湾大震災でした。本当に地震の被害を目の当たりにすると、いても立ってもいられない気持ちになるんですね。台湾には以前から行っていましたので、台湾の大震災のためにも義援金を集めて、自費で持って行きました。
 現地の病院が避難所になっていて、それこそ弁護士会館と同じです。もう何百人もの方がおられて、怪我を負われた方とか、そういう方と手を繋ぎ、共に泣きながら一緒に歌を歌いました。そしたら台湾のテレビで救援コンサートの様子が報道されたんです。それがきっかけで台湾中に広がり、多くの出会いがありました。
滝本  本当に大きく変わられたんですね。
森   弟の命が、これだけ多くの方々への励ましになっているということは、本当に感謝ですね。というか、ようやく今になって、うれしいと思えるようになりました。

弁護士についてのイメージ


滝本  ところで、森さんは弁護士についてどんなイメージをお持ちですか。
森   本当に、ごめんなさい。静岡のシンポまでと後とでは、随分イメージが変わりました(笑)。
滝本  悪いイメージから良いイメージに変わった(笑)。
森   やっぱり、弁護士の先生っていうと、えらい方っていうイメージが、どうしてもありますよね。いわゆるボランティア的な働きをなさるということとは、全く対極を行くようなイメージがあったんです。ですけど、ご活動の内容に触れると、無報酬でなさっておられる仕事もたくさんあって、弁護士って、堅い仕事だけじゃないんだなぁってイメージが変わりました。
滝本  弁護士の仕事は、僕らの用語でいいますと、委任状をもらってやる仕事と、委任状をもらわない仕事があるんです。委任状をもらう仕事というのは、ある特定の人あるいは特定の団体などから委任状をいただいて、その人たちの言いたいこと、その人たちの利益のために働くっていう仕事で、当然そこには殆どの場合対価が発生します。それとは別に、委任状のない仕事、例えば、弁護士会の活動や今ここで話題に出ている震災の支援活動をする仕事なんかがありますよね。
 それぞれの弁護士が、自分の思いや価値観に基づいて、誰の指示も束縛もなく、わが思いで誰かのために何かのために働くっていうことができるのが弁護士なんです。だから、「懐貧しく心豊かに」暮らそうが、「懐豊かに心貧しく」暮らそうが、それぞれあなたの自由と。
森   弁護士という立場は社会的に認められた存在なので、弁護士の方の行動には説得力がありますよね。
滝本  まあ、多少はあるかもわからんですね。
森   ええ。ですから、そういうボランティア的な活動をなさっても、とても力をもって活動なさることができる。そんな思いを持たれる弁護士の方が増えていかれたら、もっと具体的に社会が変わるような気がします。
滝本  僕らも、「近づき難い」っていうところを反省しなきゃいかんのですよね。たとえば、同じ相談をするにしても、森さんのように避難所まで出かけていって相談しますっていうところまでできたら良かったかもしれない。
森   いえ、でもお近づきになった先生方は、みなさん決してそんな雰囲気ではありません。取り組んでおられるボランティア的な活動もとても献身的だと思います。
滝本  弁護士って結構面白い奴もおりますよって、PRしてくださいよ(笑)。
森   本当ですね。私はご活動を知ってから、弁護士の先生方、大好きになりました。たしか震災の時も、なんでも相談というのをやっておられましたね。

10年目を迎えて


滝本  今年は、震災から10年目の年ということになるのですが、それぞれ10年目を迎えて考えておられる活動などがありましたら、お話ししてください。
森   震災は、壊れたビルが元通りに建って、道がきれいになったらそれで終わりではないと思います。あの震災を通してしか学べなかったことがあると思います。あのときの熱い思い、命がけでぶつかっていった思いっていうのが、みんなの心にあったと思うんです。当時は、ボランティア元年などとも言われましたし、神戸の人たちだけじゃなくて、日本中からそういう熱い思いが結集されていた。それが、少しずつ町の復興とともに、薄らいでいってしまったという気がします。いろんな地方でコンサートをしますけど、神戸の町でコンサートをすると全然違うんですよね。何かこう、あったかく包まれているというか、一緒に歌っているというか、あ、痛みが分かる人たちの町っていうのは違うなっていう感じをものすごく感じていたんです。でも、それが5年、6年、7年たっていくと、やっぱり普通の町になってきつつあるという感じがします。
滝本  そうですね。
森   少し寂しい、正直そういう思いもありますね。
滝本  同じ思いを、僕も感じています。あの震災のころ、茶髪でイヤリングしてブラブラしておった兄ちゃんたちが、山越えて食料持って帰って、お年寄りや子どもに「これ食い、あれ食い」って言うて非常に頑張ってくれとった。その子らは、普段は、箸にも棒にもかからん子と言われとったけども、みんなが見直した。
 今、あの子らはどこにいったんやろうか。逆に、あのころ母親のスカートに隠れて、受験勉強をしたやつが、今エリートになってる。10年経って、人間の世の中っていうのはやっぱり不思議やし、なんとも理解しがたい部分もある。あのとき、我が身だけを考えて勉強をしていた子がゆくゆくは世の中を動かす者になり、かけがえのない運搬士の連中だった子が再びブラブラしてあぶれていって、それを誰もおかしいとも思わんで、淡々と暮らしている。こういう世の中を僕が歯軋りしてもどうにもならんけど。
森   そうですね。コンサートの中で震災の当時について語ったり、歌ったりすると、終わった後に、「実はあのとき僕、食料運んだんです」って言って、「あのときの気持ちを思い出しました」って、言いに来られる方がいるんです。
きっと当時ボランティアで走り回っていた人でさえも、あのときの気持ちはどこへいったんだろうと思っている部分があるのではないでしょうか。それを「思い出しました」っていえるような事が今必要だと思います。だから、震災というのは悲しいこととして忘れる部分も必要と思いますが、逆に思い出さなければいけないことも、今あると思うんです。
 10年というのは大きな節目です。多分今後、11年目、12年目と、テレビや新聞の報道は少なくなってくると思います。でも私は、この後こそ、語り継いでいかなければいけない役割が残っていると思います。
滝本  全く同感です。そして、弁護士会としては、勉強のよくできる秀才だけの集団になってしまってはいかんと思います。秀才集団は修羅場に弱いです。天下の大秀才を集めた帝国陸海軍が必敗の戦に突入した歴史を忘れてはなりません。論理的明晰さは多少おちても物事の本質を的確に見出す大局観や他人と発想が異なっても鋭い着想を持つ人を、異端児・少数派と差別せずに、弁護士集団の中で暖かく育ててゆくことが、結果として弁護士会の戦力をパワーアップさせる事になると思うのです。
 ところで、森さんのような活動をなさっていたら、お疲れになるのではないですか。ストレスをどのように解消しておられるのでしょう。
森   いえ、私にとっては歌を歌うことが何よりもストレス発散法です。他人の悲しみに触れると心が重くなるのではないかと言われることもありますが、むしろ手を握ってその方のお役に立つことができたならば、そのことが喜びであり、感謝があふれてまいります。
滝本  本日は、お忙しい中、心温まるお話をいただいて本当にありがとうございました。
森   こちらこそ、どうもありがとうございました。


森 祐理(もり ゆり)氏
京都市立芸術大学
音楽学部声楽専修卒
NHK京都放送局テレビレポーター等を経てNHK教育TV「ゆかいなコンサート」歌のお姉さんとして出演
現在は福音歌手として、国内から海外まで、教会、ホール、学校、刑務所、福祉施設などで毎年100以上のコンサートを展開中
CD10枚リリース、著書2冊、ゴスペルアーティスト賞、大阪矯正管区長賞などを受賞
日本歌手協会会員


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