これは学校図書「中学校国語2」の中で紹介されているジョー・オダネル氏のインタビュー記事です。
 文章を書いておられる上田勢子さんは、写真評論家・翻訳家で、アメリカの写真家の作品を扱うプロモーターだそうです。
 教科書の紹介文には、「加害者にとって原爆による攻撃とは何だったのか。直立した子供の映像が問いかけます。」とあり、テーマは【国際理解、情報化】とあります。

 以下引用の上、次の12月17日付の記事に続きます。

目撃者の眼

 佐世保から長崎に入ったわたしは、小高い丘の上から下を眺めていました。すると白いマスクをかけた男たちが目につきました。男たちは五十センチほどの深さに掘った大きな穴のそばで作業をしていました。荷車に山積みにした死体を石炭の燃える穴の中に次々と投げ入れていたのです。

P01_s.jpg 十歳くらいの少年が歩いてくるのが目にとまりました。おんぶひもをたすきに掛けて、幼子を背中にしょっています。弟や妹をおんぶしたまま、広っぱで遊んでいる子供の姿は当時の日本でよく目にする光景でした。しかし、この少年の様子ははっきりと違っています。重大な目的を持ってこの焼き場にやって来たという強い意志が感じられました。しかも足ははだしです。少年は焼き場のふちまで来ると、硬い表情で目を凝らして立ち尽くしています。背中の赤ん坊はぐっすり眠っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。

 少年は焼き場のふちに、五分か十分も立っていたでしょうか。白いマスクの男たちが静かに近づき、ゆっくりとおんぶひもを解き始めました。この時わたしは、背中の幼子がすでに死んでいることに初めて気づいたのです。男たちは幼子の手と足を持つとゆっくりほうむろうとするように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。

 まず幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。それからまばゆいほどの炎がさっと舞い立ちました。真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけないほおを赤く照らしました。その時です、炎を食い入るように見つめる少年の唇に血がにじんでいるのに気がついたのは。少年があまりきつくかみしめているため、唇の血は流れることもなく、ただその下唇に赤くにじんでいました。夕日のような炎が静まると、少年はくるりと焼き場に背を向けて、沈黙のまま去っていきました。

 わたしは言葉さえかけることのできなかったこの少年が気になって仕方がありませんでした。自分で慌てて着たようなしわしわの服、はだしの足、おんぶひももよじれてかかっていました。もしかしたら家族をみんななくしてしまったのかもしれない。服を着せてくれるお母さんはもういないのか、家はあるのだろうか、考えれば考えるほど気になります。そこでわたしは日本の新聞にこの写真を載せてもらいました。「どなたかこの少年を知りませんか?」という問いかけを添えて。知り合いに頼んで何度も載せてもらいました。でも、なんにも反応はありませんでした。わたしにこれほどの衝撃を与えたこの少年は、たった一枚の写真を残していなくなってしまったのです。

 長崎に三か月滞在し、それから広島に行きました。そこでも悲惨な写真をたくさん撮りました。わたしは戦争の写真を撮りながら、自分にこう言い聞かせてきました。これは将来のために撮るのだと。わたしの見たものをみんなに見せるために撮るのだと。カメラはわたしの眼だったのです。

 日本に行くまで、わたしは日本人を見たことがありませんでした。終戦直後、日本に初めて行ったわたしは、日本人の丁寧さにただただ驚きました。こんな大変な時に、これほど礼儀正しい国民がいるでしょうか!一九四五年の九月から七か月間の日本滞在の後、何度も日本に行きました。友達も増えました。五十年以上のつきあいになる友人もいます。

 戦争は二度と繰り返してはなりません。原爆は決して落とすべきではありませんでした。戦争終結に必要だったという人がいます。でも、だれが何と言おうとわたしはこの眼で見たのです。原爆でやられたのは、老人と女たち、そして子供たちだったのです。原爆が必要だったわけなどありません。わたしは、死ぬまでそのことを言い続けるつもりです。なぜなら、You don't forget what you saw.(見たものは忘れない)から。
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