上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
 薬害肝炎被害者のみなさんが,真に救済されることが何よりも第一である。
 今は良い方向へ向かっている。その流れに水を差すつもりは毛頭ない。
 ただ,この流れが終盤でヘンな方向に流れないでもらいたい。
 そこで,ちょっと釘を刺しておくつもりでコメントしておきたい。

 昨日の福田首相と原告団の方々の面談で,福田首相の誠意は通じたようだ。
  ただし,
    「心からお詫びする」と明言した「謝罪」という行動
         と
    「被害を発生させた責任は明言できない」とした「責任回避」の姿勢
ねじれ現象に,疑問を感じた人は多いと思う。

 私も,こういう姿勢には,常々,疑問に感じているところである。

 普通は,「責任」があるから「謝罪」するわけで,
 今回が典型例だが,
 「謝罪」はするけれども,「責任」は認めない
 というのは,論理としてねじれている。

 しかし,それが最近の日本のトレンドである。

 国の戦争責任にせよ,企業の責任にせよ,
「謝罪」はするけれども「責任」は曖昧にするという歴史的事実の積み重ねが,
この「ねじれ文化」を,日本に産み育ててきたのではなかろうか。

 国が,国民に対して,金銭を支払う方法は,基本的には3つしかないとされている。

 1つは,国の違法行為によって損害が生じた場合の損害賠償である。
 この場合は,言うまでもなく,国に「責任」があることが前提となる。

 2つ目は損失補填である。
 たとえば土地収用など,国の適法行為により一部の人に損失が生じた場合に行う「補填」である。これを一般に「補償」というが,支払う金銭には対価性が要求される。

 3つ目は社会保障である。
 社会保障という看板が掛かると,我が国の福祉行政の悪弊で,窮屈な枠がはめられ「必要最小限」という歯止めが掛かってしまうという問題がある。

 立法を行うとしても,基本的には,上記の内のどれかに当てはめないといけない。

 今回の薬害肝炎問題は,明らかに「損害賠償」である。
 そうすると,「責任」を果たすという理念をベースに「救済」を考えるのが自然であるし,そうすればヘンテコな限定を考える必要もない。
 だから,当然の前提として「責任」を明確にした方が,スムーズだと思う。

 ところが,今回は薬害発生の「責任」の明記を回避するのだという。

 そうなると,流れとしては損失補填か社会保障ということになる。
 しかし,それだと補償の内容にヘンテコな限定が設けられるのではないか,という懸念も生まれる。

 模範解答としては,「損害賠償」を基軸にしつつ,不足する部分を「社会保障」で補うというミックス型ということになるのだろう。

 閣僚が,そこらあたりまで考えているのかどうかよく分からないが,「責任」という基本的な立脚点をモヤモヤした形にして,基本を忘れた救済策をひねり出したりしないよう,注意の目を向けておきたい。

 「謝罪」と「責任」のねじれは曖昧日本の特有の文化なのかもしれないが(?),
救済策の内容にねじれやひねりは不要だ!

 コンプライアンスという考え方が,定着しつつある。
 「法令遵守」という形で翻訳されることが多いが,それは狭小で誤解を生む表現である。

 この分野の第一人者の郷原信郎さんの提唱するフルセット・コンプライアンスというのは,単なる形式的な法令遵守で終わることなく,「社会的な要請に応えるために必要な条件を備えること」とされる。

 今回の薬害肝炎問題でも,国のコンプライアンスが問われていると思う。

 ◇「責任」を明確化し(←今回はここがあいまい)
 ◇これに対応する「救済」を行うとともに(←現時点ではここまで実現しそう)
 ◇「原因」を探求して(←ここには,いつも目を背けている)
 ◇十分な「再発予防」と「環境整備」を行う(←いつも,これが不十分で終わっている)


 国という組織が,真の一流企業なみのレベルに達しているのか,旧態依然とした凡庸企業の程度なのかが,問われている。

 きちんと対応すれば,「謝罪」と「責任」が,ねじれたり,分離したりする,曖昧模糊としたビミョーな文化観の増殖を抑えることができる。

 親方日の丸が悪い見本となったらいけない。
 子どもたちに「自分が悪くなくっても,口だけゴメンねって言っておけばいいのよ」なんていうねじれた道徳観を教え込むわけにはいかないだろうし,愛国道徳観を強調する方々としてもお気に召さないのではないか。
Secret

TrackBackURL
→http://tukui.blog55.fc2.com/tb.php/580-8d8522de
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。