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 今年を象徴する漢字は「偽」でした。
 おおかたの予想通りといったところでしょう。
 確かに,今年は「偽装づくし」の一年だったと思います。

yukiyama.jpg 今日は,その「偽」を追及するのではありません。
 この「偽」を問題視する「我々の側の姿勢」について考えてみたいと思います。

 「偽」に対する私たちが見せた反応は,示唆に富むと思います。
 なぜなら,社会が注目した一連の「偽装」は,決して「今年」に始まったことではないからです。
 そのほとんどが,古い過去から連綿と続いてきた因習に過ぎません。
 何が変わったかというと,今年に入ってから,にわかに「許されないことだ」というジャッジが下されるようになったということでしょう。
 マスコミは「偽装が発覚」という報じ方をしてきました。
 しかし,そういうスクープ的な表現に本質があるのではなく,「これまでのゴマカシが許されなくなった」に過ぎないというのが実態に即しているのではないでしょうか。

 私は,この「許さない」という空気の蔓延が,今年の日本の象徴ではないかと思います。

 「不正を許さない」という姿勢は当然であるとしても,「何が不正か」という評価については,時代と共に変わっていきます。
 私は,この社会が,どんな小さな事でも,どんな些細な事でも,どんな事情があっても,「悪いこと」(=つまり,ルール違反)ならば,決して許さないという雰囲気に傾倒しつつあるのを感じます。
 それも,急激なスピードで…。


 私は,そもそも法律だとか規制が嫌いです。
 人が生きていくのに,いちいち細かいところまでルールで縛られたら窮屈でたまりません。
 法律やルールは人が作るものです。
 人間の作出物に人間がコントロールされるというのは,比喩的な構図としては,人間がロボットの奴隷になるのに似ていませんか。

 「法の支配」でいう「法」というのは,人間の崇高な「理念」を意味します。
 「理念」と,「(形式的)法治国家」における「法律」とは全く意味が違います。
 「法」は,決して,「人を許さない」というものではありません。
 …ちょっと抽象的で分かりにくいかも知れませんね。
 とにかく,「法律」などというものに振り回されて,「人間の本質」を損なうような社会であってはならないという事を言いたいわけです。

 「人が他を許す」という寛容さは,文化度としては高いところにあると思います。
 これと反対に,「何事も許さない」という狭小な精神は,行き過ぎれば病的でさえあります。
 数年前から忍び寄ってきている「監視社会」の温床は,この「許さない」社会傾向にあるのではないかと感じています。
 「人の存在」や「人の行い」「人の営み」を,お互いに「許す」ことができる寛容な社会に戻って欲しいと思います。

 (「ALWAYS三丁目の夕日」に見る日本の美しさは,そんなところにあるのではないでしょうか。)

 私は,今年の「偽」という字が,「人」が「為す」という漢字であるというところにもヒントがあると思います。
 たとえ,それが過ちであっても「人の為すこと」として許し合える度量の大きい社会であって欲しいと思います。
 (なお,誤解があってはいけないので蛇足で一言付け加えます。この「許す」ことと「責任を果たさせる」ことは別です。過ちがあったら,「人」は許すが,「行い」についてはきちんと責任を全うすべきです。これまた「人の道」であり,「罪を憎んで人を憎まず」という理念の実践でもあります。)

 これをもって本年のブログの締め括りとさせていただきます。
 ご来訪いただいたみなさん,ありがとうございました。良いお年をお迎え下さい。
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