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2008.01.06 憲法の新機軸
 憲法というと「自由」と「平等」が二枚看板だと連想する人も多いだろう。

 日本には「自由」があふれ、「平等」が徹底されている。
 だから、日本は良い国だし、それを支える憲法も素晴らしい。
 ・・・・・・私も、そんなふうに受け止めてきた一人だ。

 しかし、最近は、この「自由」と「平等」という言葉が一人歩きし、かえってクセモノになっている。
 たとえば....
 ◆経済の世界に「自由」を徹底しようとして新自由主義がはびこっている。
   経済って、本当は「経世済民」という意味のはずなのに。
 ◆「平等」を、「公平」と誤変換して逆差別を起こしたり、「機会の平等」と誤訳して競争主義を煽ったりしている。
   「法の下の平等」って、人権をあまねく行き渡させる道具のはずなのに。

 これを逆手に取られて、「自由」を限定し社会秩序を徹底すべしという極論的な改憲論も主張されたりする。
 憂慮すべき閉塞的な状況だ。

 ところが、この「自由」と「平等」という憲法の旧機軸の閉塞感に対し、憲法学者の棟居快行先生(むねすえとしゆき/大阪大学教授/私が神戸大学に通っていた頃は神戸大で教鞭をとっておられた。もっとちゃんと授業を聞いておけばよかった!)が、憲法の新しい機軸を打ち出しておられる。

 「個人の尊重」「社会の公正」という2つのキーワードだ。

 読売新聞の新春インタビュー「この国をどうする」という連載記事で、1月5日に棟居快行教授のインタビュー記事が出ている。
 詳しくは、しばらくの間はネットにも記事が出ているし、動画で生声も聞けるので、そちらをごらん頂きたい(→こちらより

 そのうちのいくつかの言葉がとても示唆的だ。

 「自由と平等は憲法の基本的価値ですが、今日的には別の言葉に置き換えた方がいいかなと最近思っているんですよ。」
 「自由とか平等とかを全部あわせた『個人の尊重』というキーワードが一方で必要で、他方で『社会の公正』というのも独立した価値としてある。」
 「『個人の尊重』と『社会の公正』の調和をどこに見いだしていくかということで憲法秩序を語った方がいいかもしれない。」
 「『自由と平等』というフランス革命的なカードではなくて、もう少し現代の日本にあわせたカードで政策を切り分けたほうが、結局2大政党にうまく移行できる。」


 この棟居先生のお話には、ハッとさせられた。
 読売新聞が主張する意図とは異なるのかもしれないが、私にはとても良い新春記事だった。

 しかし、棟居先生は、実は憲法13条をそのまま率直に解説しておられるに過ぎない。

憲法第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

 このとおり、憲法13条は、
  ◆日本の国で最も重視すべき視点は、
  ◆個人の尊重という価値であり、
  ◆それを公共の福祉(≒社会の公正)と調和させることである。
と言っている
のである。

 「公共の福祉」という概念に、「社会の公正」という意味合いを持たせているところに、現代に生きる私たちに分りやすさを与え、社会の中に憲法を溶け込ませる工夫が見られる。

 いろいろ議論した末に、基本に立ち戻ることに帰結する、というのは巷によく見られることである。
 憲法を入手したころに「自由」「平等」「平和」という目新しさや斬新さに心を奪われてきたけれども、60年経過した今、あらためて基本に据えられている、
  「個人の尊重」と「社会の公正」
を機軸に据え直して、憲法の再発見・再確認のすすめ、その味わいを噛み締めていく必要があると思った。
読売新聞の新春インタビュー「この国をどうする」
1月5日より引用しておく。

新春インタビュー 憲法学者・棟居快行さん
「個人」と「社会」の調和を


受け身の社会
 現在の日本社会の状況をどう見るかと言えば、やはり「受け身」ですよね。東西冷戦が終わり1990年代以降、日本は世界の中で独自に「自分は何なんだ、一体何をするんだ」「近隣のアジアとどういうつきあいをしていくのか」ということを選ばなければいけなかった。だけど結局、状況に流されるという形でしか対応できていない。それがいつの間にかもう当たり前になってしまっていて、今はもう流されているという感覚もないかもしれない。

 内政を見ても、現在の衆参両院の「ねじれ」は、いわば作られた現状です。小泉元首相が郵政解散をやった時に、国民の公務員に対する反発を巧みに利用した。本来、行政の長である首相が役所を敵にまわして、それを叩(たた)いて点数稼ぐというのは奇妙な現象です。議院内閣制をとる憲法では想定されていない。

 ところが、彼は意図的に演出して、国民の拍手喝采(かっさい)をさらい、それで与党は衆院3分の2となった。参議院では年金問題で、やはり「役人けしからんじゃないか」と国民の側の反発が今度は野党に流れた。その都度、国民が政治家のあおりに乗って、衆議院では与党が3分の2、参議院では野党が過半数という結果が出ているわけで、これは小泉的手法がいわば表に出るか裏に出るかという話だ。

政治の貧困
 普通に、自民党、民主党、あるいは公明党がマニフェストや全体的な根幹の政策をきちんと国民に示して、「あなたは、いったいどちらのメニュー選びますか」ということをやっていれば1、2年で衆議院と参議院の勢力がころっと変わるはずがない。国民は本当にピンポイントの争点に反応している。政治家が大局的な選択肢を国民に示していないからです。これは受け身の反応で政治の貧困です。

 それでも日本社会が「個の時代」とかいって米国のようになったら、日本の今までの良いところ、組織力とかグループ力というのがなくなってしまう。サッカーだってブラジルみたいにやれと言ったって、これではかえって勝てない。個人レベルの技が弱いわけだから、「組織力、チーム力というのは我々個人にとってもメリットだ」。そういう風に再認識してやはり、個人の能力を解放することと今まで通りの組織的な強みを残していくという、両方を社会全体としてやらなければいけない。

別の言葉で
 自由と平等は憲法の基本的価値ですが、今日的には別の言葉に置き換えた方がいいかなと最近思っているんですよ。

 つまり自由とか平等とかを全部あわせた「個人の尊重」というキーワードが一方で必要で、他方で「社会の公正」というのも独立した価値としてある。個人は大事にされなければいけないけど、社会の安全とか、あるいは自分の才覚でいくらお金を儲(もう)けたといっても貧しい人にそれを再分配していくということ。これは「社会の公正」に入るわけです。「個人の尊重」と「社会の公正」の調和をどこに見いだしていくかということで憲法秩序を語った方がいいかもしれない。

 例えば、自民党が「自由だ」という。ホリエモン的な自由だと。実際にはそこまで彼らは踏み切れないし、踏み切ったらよいというものでもない。民主党だって格差是正と言ってるけど、自由を否定して平等だけを追求するのかといえば、社会が停滞して悪平等に行きかねず、そのようなことは望んでいません。

 つまり自由と平等という二つのカードで2大政党をやろうとしても無理だ。だけど、「個人の尊重」に重きを置くのと「社会の公正」に重きを置くのと、どちらを政策の切り口にしているか。例えば、「個人の尊重」にとってインド洋で海上自衛隊の給油を継続するのがいいのかそうじゃないのか。「社会の公正」にとってはどうなのか。個別の政策について、「個人の尊重」と「社会の公正」のどちらのカードを使って国民を説得していくか。そういう風に「自由と平等」というフランス革命的なカードではなくて、もう少し現代の日本にあわせたカードで政策を切り分けたほうが、結局2大政党にうまく移行できる。


 宇宙がビッグバンで最初にふきとんで、ガスが固まって星が出来ていく。今はそういう時期で、自民というガスも民主というガスも実は形が見えていない。これからお互いの距離感というか位置関係ができあがって、国民がどちらを選ぶのかという風にうまく回り出す、それを期待しています。(聞き手 高木雅信)

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