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IMAGE_033.jpg ヤメ蚊さんのブログで,大江健三郎「沖縄ノート事件」訴訟の高裁判決の真骨頂を知ることができました(→「『沖縄ノート』訴訟、控訴審判決に感動! 」より)

 私自身,大阪地裁の原審判決が出てから,はじめて『沖縄ノート』を読んでみたのですが,この本は,戦争責任者を糾弾するという類のものではなく,
むしろ,
日本人であって,また,本土の人間として,沖縄問題にどのように向き合っているのか,という自分自身(=われわれ自身)への問いかけの文章だということがよく分かり,
(→大江健三郎さんご自身も,高裁判決のコメントで「沖縄の人々の犠牲の典型です。それを本土の私らはよく記憶しているか、それを自分をふくめ同時代の日本人に問いかける仕方で、私はこの本を書きました。」と言っておられます。こちらより。)

(→『沖縄ノート』の締め括りは,日本人とはなにか,このような日本人ではないところの日本人へと自分を変えることはできないか,という暗い内省の渦巻きは,新しくまた僕をより深い奥底へとまきこみはじめる。そのような日々を生きつつ,しかも憲法第22条にいうところの国籍離脱の自由を僕が知りながらも,なおかつ日本人たりつづける以上,どのようにして自分の内部の沖縄ノートに,完結の手だてがあろう?」で終わっています。まさに,この著作は,日本人としての自分への問いかけが本旨です。)
かえって,今回の訴訟が,どういう目的で提起されたのかが,よく分かってきました。
(高裁判決も,部分的な言葉尻ではなく著書全体を見よ,と指摘しています。)

 『沖縄ノート』が執筆されたのは,ちょうど私が生まれた前後(昭和44~45年)にかけてのことです。
 私としては,約40年も経って,その内容の良し悪しが論議されること自体がナンセンスではないかと,表面的な疑義を感じるにとどまっていました。
 また,争点は,「軍による集団自決の強制の有無」に尽きる,と単純に理解をしていました。

 しかし,今回,ヤメ蚊さんの指摘を受けて高裁判決をプリントして読んでみたところ,むしろ,ハッとさせられました。
 「寛容さこそ民主主義社会の存立基盤」ということに気付いたからです。

 高裁判決は,地裁判決を支持しながらも,判決の肝の部分で,次のような指摘をしています。
特に公共の利害に深く関わる事柄については,本来,事実についてその時点の資料に基づくある主張がなされ,それに対して別の資料や論拠に基づき批判がなされ更にそこで深められた論点について新たな資料が探索されて再批判が繰り返されるなどして,その時代の大方の意見が形成され,さらにその大方の意見自体が時代を超えて再批判されてゆくというような過程をたどるものであり,そのような過程を保障することこそが民主主義社会の存続の基盤をなすものといえる。
 「批判を許さない」というのではなく,
主張に対し,批判,再批判が繰り返され,また,時代を超えた再批判がある。
こういうプロセス,つまり真摯な議論こそ,民主主義社会の存立基盤だ
というのです。

 さらに,これを受けて,判決はこう言い切っています。
仮に後の資料からみて誤りとみなされる主張も,言論の場において無価値なものであるとはいえず,これに対する寛容さこそが,自由な言論の発展を保障するものといえる。
 まさに,民主主義と自由の関係を的確に表現しています。

 寛容さが,自由な言論を育て,民主主義社会を創る
 (≒誤りを許さない厳格さが自由な表現を萎縮させ,民主主義社会を形骸化させる)

という,ことです。

 格調高い判決,というのはこういうのを言うのだろうと,しみじみ感じ入りました。

 また,大江さんが『沖縄ノート』を記したときに,日本人全体に向けて発信したメッセージが,判決を通じて,日本全体さらには民主主義全体に向けたメッセージに昇華したようにも,感じられました。

 (訴訟を提起した運動家の方々にとっては不本意かも知れませんが,)教科書検定の再見直しや,今回の判決の成果など,今回の訴訟を通じて,得られた収穫は非常に大きいと思いました。

 判決全文はこちらからどうぞ。全281頁の力作です。
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