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 「君が代」斉唱時に起立しなかったため,停職処分を受けた教師の処分取り消し訴訟で,原告敗訴の判決が,最高裁で見直される見通しになった。
 (→ニュースはこちら

 これまでの君が代斉唱不起立をめぐって,思想良心の自由に反するかどうかが争われた事件がたくさんある。
 最高裁の判断は全て合憲判決で,原告側の敗訴で終わっている(以下のとおり)。

        2007年2月27日(第3小法廷) 戒告
        2011年5月30日(第2小法廷) 戒告
        2011年6月6日(第1小法廷) 戒告
        2011年6月14日(第3小法廷) 戒告
        2011年6月21日(第3小法廷) 戒告
        2011年6月21日(第2小法廷) 命令無効確認(却下)※1
        2011年7月4日(第2小法廷) 戒告
        2011年7月7日(第1小法廷) 威力業務妨害罪(有罪)※2
        2011年7月14日(第1小法廷) 戒告

   (※1は仮処分事件,※2は刑事事件なので,ちょっと違う。)

 要するに,これまでの判決は,全て「戒告」処分だったのだ。


 今回の事件は,停職処分ということで「重い」処分だった。
 これを見直すということである。

 きっと,懲戒処分を科するとしても,せいぜい「戒告」止まりで,「停職」は行き過ぎだ,という判決になるのだろう。


 それはそれで,社会的にみれば,落ち着きやバランスとしては妥当なのだろう。

 ただキモチワルさが,かえって引き立つような気がしてしまう。

 「戒告」というのは,「いましめる」処分であるが,「いましめ」の語意は「しばる」ということである。
 つまり,「心」を「しばる」懲らしめなのだ。

 起立行為拒否という客観的・外形的な所作に対する,「しばりという心への懲らしめ」は許されるが,停職という客観的・外形的な処分はダメということ。

 最高裁判決の論理は,「起立斉唱行為は,学校の儀式的行事における慣例上の儀礼的な所作として外部からも認識されるものであって,特定の思想又はこれに反する思想の表明として外部から認識されるものと評価することは困難」ということだったはず。
 つまり,所作(行為)の外形にのみ着目して,処分を科すというところが最高裁の理屈の核心だったはずである。


 今回の見直しが,
    「外形的所作の問題」 ← 外形的な減給処分
 だったものが,
    「思想・良心の問題」 ← 心に対するこらしめ
という形に変わるのであれば,軽くなって良かったという側面よりも,「目には目を,歯には歯を」の延長線上で,「心には心を」という傾向がくっきりと対照され,心に対する呪縛,委縮の効果が一層高まってしまうのではないか,という違和感を覚えてしまうのである。


 とはいえ,まだ判決が出ているわけではない。
 ちょっと先走り過ぎたかもしれないので,もうしばらく見守ることにしよう。

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