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途中で穴を開けるわけにいかないのでPCに向かいます。

 私がこのブログで唯一、一貫させようと心掛けているのは、前向きでありたいという姿勢です。

 しかし、どうしても、その姿勢と相容れないものがあります。
 それは「死」です。

人のが失われること。
それだけは、どうしても肯定的に捉えることができません。
心情的にも、理性的にも、当然のことでしょう。

特に、自らを断つこと。
それは、どうしても重過ぎて、何ともやるせなくて・・・・。
 もちろん、人のの大切さは、誰でも、頭では理解していることです。
 ですが、失ったときの喪失感、あるいは、生きていることがかけがえのないことであるという感覚は、実際にその場面に遭遇しないと分からないといいます。
 確かに、そうかも知れません。

 こういう捉え方があります。
 人が「死」に至ると、「未来」を決定的に失う。
 「過去」は、記憶や記録に残るかも知れない。
 だが、「未来」は確実に無くなってしまう。

 しかし、本当にそういう捉え方でいいのだろうか、と、今日ふと思ったりしました。

 人の死の持つ意味を、あらためて考えてみました。

 つまり、人間がひとりひとり大切でかけがえのない存在なのであるから、ひとつとして無駄な「死」というものはないはずで、それぞれの「死」が導き出す「訴え」があるのではないか、
そういうふうに考えてみたのです。

 もし、自らを断った彼女が「死」によって訴えようとしたものがそこにあるなら、それを受け止め、さらに生かし、確実に実践していくことも、いわば「個人の尊厳」の実現かも知れません。

 なんだか抽象的で、よく分からないコメントになってしまいました。
 今日一日の心身の疲れでぼーっとした頭で、思いめぐらせたことを書いてみたものですので、ご容赦ください。


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